「備え」の欠如
あと数日で東日本大震災から10年目の3月11日となる。今年はあの悲劇で失われた命を悼み、復興のあり方を見直す日であると同時に、震災と津波によって引き起こされた原発事故を振り返り、あの国家的危機からわれわれは何を学んだのかを検証すべき日でもある。とくに、新型コロナウイルスによるパンデミックという国家的、世界的危機が進行する中で、はたして日本の危機管理は改善されたのかどうかを考えなければならない。
こうした問題意識を踏まえ、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)は「福島原発事故10年検証委員会(第二民間事故調)」を立ち上げ、筆者が主査となって、この10年で事故の教訓から何を学んだのかを取りまとめた。
また、筆者は昨年10月に発表されたAPIの「新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)」報告書、2012年にAPIの前身である日本再建イニシアティブが発表した「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」の報告書でも一部執筆を担ったこともあり、原発事故と新型コロナ対応の検証作業を通じて見えてきた、日本の危機管理のあり方について論じてみたい。
福島原発事故と新型コロナ対応で共通する第1の点は「備え」の欠如である。原発事故では津波により非常用発電機や配電盤が水没して使い物にならなくなり、全交流電源の喪失(SBO)が起こることを想定していなかった。ゆえにSBOが起こった際には計器を読む電源さえ得られず、車からバッテリーを外して使うといったことが起きた。
こうした「備え」が欠けていたのは、日本における原子力政策に「絶対安全神話」が横たわっていたからであろう。事故が起こることを望まない立地自治体の住民や国民全体と、安全規制をしっかりしていれば事故は起こらないと信じる原子力推進側が共鳴する形で「絶対安全神話」が成立し、事故が起こらないのだから備える必要もないという集団思考に陥っていたことが、「備え」の欠如の根本にある。
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