「夢」「勇気」「仲間」「絆」「寄り添う」「イノベーション」──。
何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉が、政治やビジネス、ネット、J-POP界隈に蔓延している。
世の中はいつからポエム化し、人々はポエムに何を求めているのか?
ポエム化現象のナゾを5日連続で解明していく。
分岐点はヒデの引退メッセージ
──小田嶋さんは著書『ポエムに万歳!』の中で、日本がポエム化している状況に警鐘を鳴らしています。ポエム化はいつ頃から始まったのでしょうか。
おそらく分岐点は、中田英寿が2006年に引退メッセージを「nakata.net」(中田英寿のオフィシャルサイト)に書いたときだと思います。
※以下に引用
8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
(中略)
サッカーはどんなときも俺の心の中にあった。
サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。
喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。
まず大の男が公の場で、あの書き出しで、私的な声明文をかますのか、という驚きがありました。ただ、彼のオフィシャルサイトの中で自分のファンに向けたメッセージを伝えたのだと考えれば、そんなに悪い文章ではなかったと思います。いや、私はヒデのファンなんですけどね。
問題は、あの文章を多くのメディアが取り上げたこと。「報道ステーション」で古館伊知郎が2回も朗読したのです。しかも、非常にエモーショナルな読み方で。翌日、朝日新聞と毎日新聞はメッセージを全文掲載して、教科書に掲載しようという声まで挙がった。反響がものすごく大きかったのです。
あのとき、私はこういう文章がものすごくウケる時代になっていることに驚愕しました。
──詩的かつ私的な文章を公的なメディアが取り上げ、国民も受け入れた。それが日本のポエム化の始まりである、と。
ええ。文章を書いていてポエムになってしまうことはありますよ。自分の内面や私生活が勢いで漏れ出してしまうとき。たとえば、恋人同士が交わす手紙やメールなんかはプライベートなものですから、もろポエムになりますよね。それは当事者以外に読む人がいないから、かまわない。個人ブログの中でファンしか読まないという、ある結界の中で使われている言葉はポエムであって差し支えない。
しかし、ポエムが公的な場所に持ち出されると、おかしなことになってしまうのです。公的な場所に持ち出す文章は、読む側からすると、公的な色彩を持っていないと本当はいけないはずです。ところが、テレビや新聞はあのポエムを褒め上げて、市民権を得てしまった。市民権を得ると、ポエムって気持ち悪くなるのです。
つまり、ポエムそれ自体ではなくて、ポエムの立ち位置や、それを読む人との関係性によってポエムの良しあしが変わるのだと思います。
「天声人語」みたいなメディアがもろなポエムをかますと、やっぱり影響力が甚大ですから、世の中全体の文章の標準を壊しかねません。
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