日本のポエム化は中田英寿から始まった! ポエム化を助長するのは安倍さんとEXILE

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客観性を装いながら叙情的な天声人語

──天声人語もポエム化していますか。

「『ウクライナ』という柔らかい響きからは、かすかな麦笛を聞く心地がする」(2014年5月28日付)とかね。

ただ、ポエム化する必然性があるといえばあるのです。新聞記事はもともと5W1Hで書くもので、記事自体は情報を運ぶための乗り物でしかなく、何の装飾もない無味乾燥なものですよね。新聞記者だった人が書いた文章読本には、つまらない装飾はするな、感情は露出させるな、論理的に書け、平明に書け、思わせぶりはするな、といったことが書かれている。要するに、いちばん味わいのない文章が名文だとされていて、実際、ジャーナリズムの世界はそうでもあります。

しかし、天声人語に求められているのは、もう少し叙情や文学的なものでしょう? 新聞の世界で文章術を鍛えてきた人たちが、急に天声人語を担当させられるわけですから、若干、無理があるのです。しかも、天声人語の立ち居地がヘンなのは、「天の声」であり、「人の語」であるところです。書き手が「個人」ではない。

普通、コラムというのは顔の見える個人が「私は」という一人称単数代名詞で書かれるはずのものです。主語があるからこそ、「俺はカレーライスが好きだ」でも何でも、私的な感情を、偏見であれ決め付けであれ、書くことが許されている。でも、天声人語には主語がない。客観性を装った中で情感を持たせようとしている。

──難しいのですね。

でも、彼らは文章がある意味、うまいですから、その奇跡の技をやってのけているわけです。一人称を使わずに情感を持たせるという技を。言い切らずに余情や余韻を含ませるような文章をよく書きます。たとえば、「見上げると、十六夜の月がかかっていた」とか、風景で終わらせたりする。

日本語はもともと主語を表に立てるのはあまり品がないという文化があったとは思います。「源氏物語」も「帝はこう言いました」と書かずに、助動詞や動詞、前後の文脈から主語を類推する。主語がないほうが雅びな文章だ、という共通理解が日本の文章にはあるので、天声人語はその伝統を踏まえた書き方ではある。

ただ、あいまいに投げ出すような表現で、解釈を読者に委ねるような書き方は、文学的ではあっても、ジャーナリスティックな文章としては失格なわけです。

天声人語のまずいところは、日本古来のやまと言葉の伝統にのっとった書き方をしながら、内容はジャーナリスティックである点です。「日韓関係に注意すべきだ」と書くときは、「私はこう思う」と明示しなければいけないのに、「日韓海峡の白波はさらに高まるのだろうか」みたいな感じで書く。

──昔の天声人語は違ったのでしょうか。

私が高校生の頃に読んでいた天声人語は、もう少し漢文的でした。老子や論語の一説を引用したりして、ちょっと教養人を気取っていて嫌味があったのですが、1990年代ぐらいから漢文的教養をあまりひけらかさなくなった印象があります。小難しいのはやめて、わかりやすくしようという反省があったのかもしれない。

しかし、情緒的な表現が教養抜きで書かれると、これはもうJ-POPですよ。

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