「疫病の記憶」を紡ぐイタリアと日本の教育差 絵画からも両国での捉え方の違いが見えてくる

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アントニヌスの疫病は、帝国の東側に隣接していたパルティア王国の前線、ユーフラテス川流域にいたローマ軍の兵士にまず感染しました。そして、彼らの帰還とともにローマへ持ち込まれました。

その後、ローマ市内だけで千万単位の人が死んだとされますが、それだけの人が死ねば経済は停滞します。小麦を輸入するための船は人材不足で動かせなくなり、港も機能せず、パンを焼く人も死に、民衆は餓死の危機にも迫られました。

一般市民や商業関係者だけでなく、兵士の数も減り、属州の隅々にまで監視が行き届かなくなります。そうすると、敵対関係にあった周辺の蛮族らが国境を越えて帝国内部を侵し始め、ローマ帝国は大きなダメージを受けることになります。

歴史上の疫病を教育課程で学ぶ

さらに、紀元250年には「キプリアヌスの疫病」と呼ばれる天然痘のパンデミックが発生し、当時の2人の皇帝も感染して死亡。アレキサンドリアでは人口の3分の2が死滅し、これによってローマ帝国内にはキリスト教を信仰する人々が一気に増えていきます。

キリスト教がローマ帝国の国教になるのはさらに100年以上後のことですが、この疫病のパンデミック前まで、キリスト教はローマに背いた危険な思想を及ぼす過激な新興宗教と見なされていました。

アントニヌスの疫病の際にはキリスト教信者への偏見が過熱し、疫病はローマの神々を信じない彼らのせいだと、弾圧まで行われています。しかし、キプリアヌスの疫病の時代になると、火葬される犠牲者のイメージがキリスト教が説く地獄の様子と重なり、信者を増やすきっかけとなったともされています。

イタリアではこのような歴史上の疫病の影響力を、教育課程で学びます。もちろん学校で学ぶことですから、時間の経過とともに多くの人の記憶から忘却されたりもするでしょう。でもいざというときに、「そう言えばたしか……」と思い出す人も少なからずいるわけです。

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