生産性に振り回される人々が抱く「恐怖」の正体 価値を見定められ切り捨てられないかと怯える
近年、話題のビジネス書やスキルアップ系のオンラインサロンなどでお題目のように唱えられている「生産性」という言葉。
「劇的に生産性を上げる方法」「生産性を上げる7つの習慣」「幸福な人ほど生産性が高い」「生産性を上げて定時に帰ろう」等々──。これらは多くの場合、厳密には労働生産性や1人当たりGDPなどとは趣の異なる使われ方をしている。つまり、「優秀な人材かどうか」や「クリエーティビティーの有無」といった市場における各人の仕事の能力やパフォーマンスを推し量る「一種の呪い」となっているのである。
「あいつは生産性が低いからダメだ」といった嘲笑レベルの会話にとどまらず、「君はほかの社員と比べて生産性が低すぎる」という言辞が退職勧奨の常套句にもなっている。けれども、往々にして「生産性」が意味するところは、やたらと多義的であり、明確ではない特徴がある。
生産性とは、ざっくり言えば、あるモノを作るに当たり、生産諸要素がどれだけ効果的に使われたかということであり、それを割合で示したものである(日本生産性本部/生産性の定義より)。生産諸要素とは、機械設備やエネルギー、労働力などのことをいう。
「生産性」は「呪いの言葉」に
例えば「労働生産性」は、「労働投入量1単位当たりの産出量・産出額」のことで、労働者1人当たり、または労働1時間当たりでどれだけ成果を生み出したかを指す。「労働生産性が向上する」ということは、同じ労働量でより多くの生産物を作り出したか、より少ない労働量でこれまでと同じ量の生産物を作り出したことを意味する(同上)。
近年、盛んに問題視されているのは、世界の先進国における日本の労働生産性の低さだ。これは主に中小企業における設備の合理化の遅れや、前時代的な制度や慣習などが阻害要因であるとされ、とくに長時間労働の文化は少子化に拍車を掛けているとさえいわれている。
にもかかわらず、世間に流布している「生産性」という言葉の微妙なニュアンスは、先のように働き手を値踏みするあいまいな尺度と化しており、イノベーションを推し進めて働き方改革を主導すべき経営層に刺さるどころか、非正規雇用の人々や解雇におびえる中堅社員、あるいは就職希望の新規学卒者などに深く刺さる「呪いの言葉」になっている。
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