生産性に振り回される人々が抱く「恐怖」の正体 価値を見定められ切り捨てられないかと怯える

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「生産性という呪い」の内面化は、終わりなき相対化のゲームをもたらす。つねに他者との比較に一喜一憂し、突然用済みにされる事態におびえ、慢性的な「相対化疲れ」に見舞われる。だからこそ、何か絶対的なもの、誰かから能力を試されたり、数値化されたりする時空から切り離された「無防備になれる居場所」を切望するのだ。

これによって「相対化疲れ」が緩和され、ゲームへの深入りを回避できる。けれども、今やわたしたちの自尊心を支えてくれるコミュニティや人間関係は希少財となってしまっている。

「若い魅力的な女性」というSNS上の虚構人格で恋愛することに熱中しすぎるあまり、自己を見失う50代女性の悲劇を描く映画『私の知らないわたしの素顔』(監督サフィ・ネブー、2019年、フランス/ベルギー)は、「不要とされる不安」が作り出す自尊心の真空地帯を暴く。

主人公が精神科医に吐露する「死ぬのが怖いんじゃない。見捨てられるのが怖い」は、個人化された社会における「廃棄扱い」とされることの恐怖を見事に表現している。「われわれは皆、遅かれ早かれ非生産的となり、〈不要〉の烙印をおされることになる」(前掲書)……労働市場だけでなく恋愛市場においても「不要」が「依存」を促進するのである。

相対的なもの以外での承認が得にくくなっている

そのような隘路(あいろ)に陥ってしまわないためには、前述した市場とは別の領域が必要になる。しかしこれが簡単な話ではない。わたしたちが「生産性」という言葉にやきもきするのは、変化への適応を声高に叫ぶ国や企業が、実質個人にその重責を押し付けていることへの苛立ちはもちろんだが、「生産性」といった相対的なもの以外での承認が人生において得にくくなっているからではないか。

すべてのコミュニケーションの市場化へと突き進む前代未聞の状況下において、自尊心の欠乏をインスタントに解決してくれる救世主のような存在というのは、「不要とされる不安」から離脱したいと思う人々をカモにした巧妙な商売かもしれないのである。ブラック企業然り、自己啓発ビジネス然り……。

もし、「生産性の高い人材」として市場で絶えず重宝されることなどよりも、「自分らしさ」のよすがとなるコミュニティや関係性を持ち続けることのほうが至難であるとしたら?──わたしたちが近年直面している未曾有の危機は、このような恐るべき問い掛けが根本にあるのだ。

真鍋 厚 評論家、著述家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事