「世界の山ちゃん」社長急死で妻が見せた"手腕" 経営素人から、全国68店舗を率いるトップに

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当時すでに数軒の居酒屋を経営していた山本重雄氏が開発したピリ辛の手羽先が“幻の手羽先”として口コミで人気を博し始めた、その矢先のことであった。

愛知教育大学を卒業した久美さんは、小学校教員として名古屋市立猪高小学校に赴任した。

「中学に行ってバスケ部を指導したいと思っていたのに、小学校に配属になってしまった。小学校のバスケを指導しようとはこれっぽっちも考えていなかったので、身を潜めていればしなくてすむと思ってました(笑)」

いくら身を潜めていても、噂は広まっていくものだ。夏にはバスケ部の主任顧問の補助役を引き受けた。

ところがバスケ部の主任顧問が病気になって、長期休暇を取ることになってしまった。となれば、久美さんが指導の中心になるしかない。

指導を始めると、子どもたちの実力がみるみる間に上昇していく。主任顧問が他校に転任となり、久美さんが指導の中心となった1年後には、男子チームが市大会で準優勝するほどになっていった。

“来年こそは優勝だ!”と熱狂も高まるばかり。だが、小学校の部活には全国大会がない。どれほど強くても、市大会までだったのだ。

「そんなとき、ある先生から、“クラブチームを作ると、全国大会にまで出られる。高いレベルでバスケをやることができる”と聞いて。面白そうだと、クラブチームの『昭和ミニバスケットボールクラブ』を作ったんです」

熱血監督「デビル塩澤」と呼ばれて

1993年、久美さんが26歳のときに設立し、猪高小学校の選手たちを主力に据えたクラブチームの活躍は、目覚ましいのひと言だった。

久美さんは「助けずにはいられない人」と友人の半谷さん。久美さんの方向音痴を心配して、バスケの遠征先に付き添ったこともあるとか(撮影:渡邉智裕)

チーム結成わずか1年目で全国大会で優勝。優勝までのスピードは、全国的な注目を集めるほどであった。

飛躍の理由は、優秀な選手陣や井上先生仕込みの3年先を見越してのチーム作り、陰で「デビル塩澤」と恐れられた猛練習にある。そして、久美さんならではのみんなをまとめ上げ、引っ張っていくキャプテンシーあふれる指導も見落とせない要因だった。

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