空気を読めるかどうかは、自分で判断できない
HDDに撮りためていた番組を一気に消化しようと、定期的に1.5倍速でだらだらと流すことがよくあります。そのときに何かのトーク番組――確か「ニッポンのジレンマ」だったと思います――のテーマが「空気を読む」ことについてでした。
スタジオに識者を呼び、自分は空気を読むか否かということを4択で聞いていましたが、状況設定なしでいきなり「本人に」空気を読むか読まないかを択一式で答えさせるというのは、とても難度の高い質問だと感じました。自分だったらぐちゃぐちゃと前提をつけて、もごもごと言ってしまいそうです。
大体、空気を読める人も読めない人も、それはあくまで他者からみた認識です。
「空気を読めない(と認識されている)」人は、空気そのものを自覚していないから空気が読めないわけで、その人にとって、そもそもこの質問自体が成立しません。この質問に「空気を読める」と主張すること自体、他者から見ると空気が読めていない証左のわけです。
一方、自分は空気を読めないと自覚している人がいたとしても、それは純粋な意味で「空気を読めない」のではなく、空気を読んだうえであえて空気を読まない判断をしているという場合も、それなりに多いと思います。それは要するに空気を読んでいるわけです。
最大公約数的に言えば、空気を読める人というのは、その場の状況に応じて空気を読む場合もあえて読まない場合もある。そしてその判断を、空気を読みながら行うというのがひとつの解のような気がします。
したがって、他者から見て空気を読める人も読めないと認識されている人も、本人に聞いてもきっと他者からの認識とは一致していない答えを言う場合も多いわけで、結局、本人に聞くそんな質問自体に何の意味があるのだということにもなります。
こんな屁理屈をだらだらというのが目的ではありません。今日のテーマは、空気を読んだうえであえて空気を読まないこと。なんだか矛盾にも聞こえるこんなことについて考えたいと思います。
相手によって言動を変えるのは自然なこと
われわれは関係性の中で生きています。結局、絶対的な自分などというものは幻想で、自分というものは相手との関係の中で規定されるものです。たとえば、今、私のPCの画面に映り込んでいるFacebookのタイムラインを眺めていても、会社の上司に対するコメントのトーンと、大学の同期に対するコメントのトーンと、古くからの友人に対するコメントのトーンは、同じ人でもそれぞれに異なります。私も当然にそうです。
でも、それぞれが自然体の自分で、別に飾っているわけでも偽っているわけでもありません。われわれは自然体として多面的な存在であり、それぞれは相手との関係によって規定されるのだと思います。
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