しかも、この問題はPCR検査数を積み上げれば積み上げるほど重大になる。検査が偽陽性者を作り出す確率が極めて低く、たとえば仮に0.1%であったとしても、その検査を1億人の日本人全体に拡大すれば、実に10万人もの偽陽性者を作り出すことになりかねない。
感染症検査体制の整備は、あくまでも患者治療のために行うべきで、検査数を積み上げること自体を目的化したり、日本の「出口戦略」として検査拡大を主張したりすることが適切とは思えない。
筆者が今回のウィルス禍で強く思うようになったのは「私たちの自由への心が試されている」ということである。
私たちの国家が国王や皇帝の家(イエ)の延長ではなく、そこに住む国民あるいは市民のものになったのは19世紀のことだったが、その過程では自由を求める人々の苦しい戦いがあった。19世紀の国民国家における自由とは「血と涙」で守るものだったのである。明治元勲の一人でありながら自由民権運動に転じた板垣退助が暴漢に襲われたとき口にしたとされる「板垣死すとも自由は死せず」という言は、そうした自由への心が開国後間もない日本でも共有されていたことを示している。
私たちの「自由を守る心」が試されている
その自由を、規制を緩和し経済を活性化させるため、言い換えれば儲けるためのインフラに貶めてしまったのが、英国のマーガレット・サッチャーそして米国のロナルド・レーガンに始まる「新自由主義」である。新自由主義の功罪はまた別のところで論じるとして、それが私たちの自由を守る心に「劣化」をもたらしたことは否定できまい 。
「経済活性化のために国民全員に検査を」という主張などに接すると、それを言う人は検査を強制された一人ひとりの自由を、あるいは検査結果により隔離された一人ひとりの自由を、どこまで考えているのか疑問を抱かざるをえない。
また、「それなら希望者全員に検査を」という議論にも簡単には賛成できない。人々が感染の恐怖におびえる世界では、「全員」と言ってしまった段階で、相互監視の集団心理によって希望しない人にも同調を迫り、事実上の強制に結びつきかねないからだ。
PCR検査体制の模範国とされることの多い韓国では、隔離命令を確実にするための電子リストバンドの装着を被隔離者に義務づけようという動きがあることも報じられていた。さすがに実現には至っていないようだが、それが検討されたということ自体、全員PCR検査論のような主張を生み出す「空気」がはらむ危険を示唆しているといえる。
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