台湾民主化をリードしたジャーナリストたちの相次ぐ死と衝撃、台湾民主化闘士5人に共通する3つの点

陳暁林は3年前に前立腺がんの手術を受け、76歳で死去。南方朔は78歳で肺炎の合併症、林正杰は73歳で肺腺がん、陳婉真は75歳でトリプルネガティブ乳がんが肺に転移し亡くなった。顏文閂は晩年に脳卒中を患っており、死因は公表されていない。
「顏文閂は自分の生活のことは忘れていた」
ベテランジャーナリストの荘豊嘉はSNSで、南方朔がその時代の思想家だったなら、顏文閂は台湾本土派メディアの勃興に不可欠なメディア界の巨人だったと述べた。
荘豊嘉は、かつて「新新聞」で働いていたが、顏文閂が司馬文武を迎えて、もともと軍が所有していた「台湾日報」を再創刊。その際、
「顏文閂から電話があり、彼も司馬も私の元上司だったので、『新新聞』を離れて『台湾日報』へ移った」と、当時を振り返る。そして、「台湾日報」で9年間勤務し、政治部長から編集長まで務める。
当時の様子を、「自分の報道人生の中で最も長く勤めたメディアであり、顏文閂には恩がある」と、語った。
「台湾日報」が終了した後、顏文閂は当時の部下数人と定期的に食事会をしていた。しかし彼が軽い脳卒中を患ってからは、その会も途絶えたという。
「晩年の彼はとても落ちぶれており、外部との接触を好まなくなっていた。私が顏文閂の訃報を知ったのも、ずいぶん後になってからだった。かつてのメディア文化人は、一見すると意気揚々としていたが、実際には多くが金銭に無頓着で、晩年には自分の面倒をみることすら困難だった」
「ある友人が言っていたが、彼らは『毎日国の大事を気にしていたが、自分の生活を忘れていた』」
と、述べている。
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