新自由主義は「上から下への階級闘争」だった 「2つの階級の分断」をあらわにしたコロナ禍

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マルクスが批判したアダム・スミスや、ヘーゲルについても同じことが言えます。

アダム・スミスの国富論が発表されたのは1776年。この年にはほかにも重要な事件が重なっています。1つはアメリカの独立であり、もう1つはジェイムズ・ワットが蒸気機関の実用化を開始したことです。つまり、それまでの大国による植民地支配が終わり、産業社会が始まるという大きな文明移行期に当たっているのです。

アダム・スミスが批判したのは、1600年頃から始まった東インド会社による植民地戦争による重商主義であり、王権による世界の富の略取という仕組みそのものだったのです。これに対して、スミスは、国家の労働力こそが富の源泉であり、1人の権力者ではなく市場こそがその富をコントロールするものであると説きました。

このアダム・スミスや、後続のデイビッド・リカードを批判して現れたのがカール・マルクスでした。市場経済というものが持つ爆発的なパワーは人間社会を大きく変容させました。

理性と自由が実現してゆくプロセスであるという考え方

しかし、この市場経済社会は、この先、人類をどこに向かわせるのか、それは人間に幸福をもたらしうるものなのか。すでに、市場競争社会が、持てるものと持たざるものの格差という矛盾を現し始めている時代に、市場社会そのものに対する根元的な文明批判として、世界の価値観や成り立ちについて分析を開始したのです。

商品とは何か。交換とは何か。価値とは何か。労働とは何か。利潤とは何か。資本とは何か。貧富格差とは何か。誰もがすでにわかり切っていると思っていることを、一から検証することで、彼の時代の中にある不確実性について徹底的な批判を加えていったのです。

それは、マルクスが生きた時代が、産業革命の進展によって大きく変化しようとしている文明移行期の時代を見通すためでした。

マルクスが依拠したのは、ヘーゲルの「今あるものにはつねにその自己否定が含まれている」という考え方です。歴史とは、今あるものの矛盾が、対立や闘争を経て、理性と自由が実現してゆくプロセスであるという弁証法的な考え方です。その思考過程の中で、マルクスは「階級闘争」という言葉を発見します。

マルクスは、世界の構造を根本的に理解しようとするために、世界に流通している商品や、貨幣だけではなく、そうした世界の実現を説明する人間の言葉や、思考法そのものに大きな陥穽(かんせい)があることを見逃しませんでした。

持たざる者たちが、自らを救済しようとする言葉や思考法そのものが、持てる者たちによって包摂されてしまっていると考えたのです。そして、生産手段を持つ資本家と、労働力を売る以外に自分を再生産する手段を持たない賃労働者との間にあった、これまで見えなかった関係を、可視化してゆきます。

さて、『武器としての「資本論」』の作者である白井聡は、同書の裏テーマが「新自由主義の打倒」なのだと言っています。そのために、マルクスの思想を武器として使えるはずだと言うのです。

そのヒントは、デヴィッド・ハーヴェイが指摘した「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争なのだ」という言葉の中にあります。マルクスが、当時の世界の矛盾の先に見出した、「階級」という概念を使って、現在の新自由主義を撃とうとしているわけです。

わたしは、この視点は大変優れたものだと思っています。マルクスは、「階級闘争」という概念を、労働者が自らの理性と自由を実現してゆくための武器として使いましたが、現在のグローバル化し、貧富格差を拡げている世界のそもそもの源泉を掘ってゆくと、そこには「上から下への階級闘争」が行われており、労働者は自らの社会変革の武器を資本家に奪われ、利用されてしまっている姿が見えてきます。

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