開田さんの描くプラモデルの箱絵の評価は高く、その後もあまたの作品を描いた。
2019年には、開田さんの箱絵の原画を集めた展覧会が、池袋パルコのパルコミュージアムで開催されて多くのファンが集った。
怪獣倶楽部時代の知り合いなどから、仕事を頼まれて、いつの間にか人気作家になっていた開田さんだが、
「自分でも何かしなくてはならない」
と思っていた時期もあったという。
「東宝の宣伝部のやり手の女性に相談すると『やっぱり営業するしかないんじゃない?』と言われました。『そうか!! 営業か!!』と思って、いきなり電通に作品を持っていって、『絵を見てください!!』と言いました。少しは仕事になったのですが、満足してそれっきり自分で営業はしていません(笑)」
開田さんは自分では営業はしないが、代わりに営業してくれている人がいる。
開田さんの妻、開田あやさんだ。1984年に出会い結婚した。当時の女性としては珍しい、怪獣映画好きで、開田さんの描く『宇宙船』の表紙も好きだった。
「当時は付き合いがあるのは怪獣仲間ばかり。話をする女性は妹と母親くらいで、急にそういうことになって自分でもびっくりしました」
あやさんは、自身で作家もされており、さまざまな交流会などに積極的に参加される。
そういう折に、開田さんの売り込みをしてくれるという。
「作者本人が売り込みをするのって、難しいですよね。自分のことを高く言うのも、恥ずかしいですし。代わりに女房が売り込んでくれるのはとてもありがたいですね。
今でも作品が上がると真っ先に女房に見せているんですが、褒めるだけではなく、非常に厳しいことも言ってくれて助かります」
開田さんは、イラストレーターになりたいのになれない、という思いをした時期はなかった。またやりたくない仕事を、生活のためにするということもほとんどなかった。
「好きな物を描いた記憶しかないですね。ただこれは才能があったとかではなく、ただ単に本当に運がよかったんだと思います。たまたまいい人に知り合えて、いい場所にいたから、仕事をもらえました。
若い人に、
『イラストレーターになるにはどうしたらいいですか?』
と聞かれると困ってしまうんですよね。苦労をしていないから、的確なアドバイスができないんです」
「怪獣絵師」と呼ばれるようになったきっかけ
開田さんは「怪獣絵師」として皆に覚えられるようになっていた。ただ、「怪獣絵師」の呼び名は周りが言い出したのではなく、自称したのがはじまりだったという。
「『月刊ニュータイプ』(KADOKAWA)にいろいろな人が近況を書くコラムがあるのですが、そこに寄稿する際、肩書をいろいろ変えていたんです。ふっと『怪獣絵師』にしたんですね。そうしたら、それがいつの間にか定着しました」
開田さんは「怪獣絵師」として長年にわたり活躍しているが、イラストの描き方のスタイルは途中で大きく変更した。
「プロになって42年ですが、最初の20年間は絵の具でイラストを描いていました。それ以降は、コンピューターで描いています」
最初に友達にコンピューターを勧められた時は、
「手で描いたほうが早いんじゃないか?」
と思ったという。
ただ以降、年々コンピューターは加速度的に進化していった。
「それでマッキントッシュのコンピューターを購入しました。当時のコンピューターでは大きなサイズのイラストを描くことはできなかったので、下書きにあたる線画を構成するのに使っていました。
そしてPower Macintosh 8500(1995年発売)を導入してからは一気に全部パソコンでの作業に切り替えました。ソフトはPhotoshopで描いています。
部屋が汚れない、データのやり取りがやりやすいなど、メリットは多いですね」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら