クラスの中では漫画を描くグループに入っていた。真っ白なノートに自分なりの漫画を描いた。
「鉄腕アトムや鉄人28号の影響を受けていました。博士がまずロボットを発明するところからはじまる漫画です。漫画を描いては級友と見せあいっこをしていました」
ただ将来、漫画家や画家になりたいと思っていたわけではなかったという。
「小学生の頃は大工さんになりたいと思っていました。それで中学生のときには木工部に入りました。全然ついていけなかったですけど。本格的に絵を描き始めたのは高校に入ってからです」
総計42平方メートルも描いた高校時代
高校は普通科の新設校に入学した。学校ができてまだ2年目だったので、開田さんが入ったときには3年生はいなかった。
「高校の美術の先生は面白い先生で、さっそく美術部に入りました。入って半年後に先生から『部長になれ!』って言われました。結局1年半くらい部長をしていました」
美術部では、小学生時代とは打って変わり、シュールレアリスム風な作品を描くようになった。
「先生が持っていた美術雑誌に載っていた、サルバドール・ダリやジョルジョ・デ・キリコのような作家を面白いと思うようになりました。
油絵という画材に出会ったのも大きかったですね。白衣を着ているし、美術室だから、ローラーでダイナミックにバババっと描いても、誰にも怒られないですからね。思いっきり手を動かして、ダイナミックに絵を描くというのに目覚めました」
ベニヤ板3枚を合わせた巨大な絵を描いたこともあった。高校時代に描いた絵の面積を合計すると、なんと42平方メートルになったという。
「美術部にいかにもアーティストという雰囲気の先輩がいて憧れたりしましたね。新設校だったためか、不良ではないけどフリーに生きている感じのクラスメートがいて妙に気が合いました。僕は制服とかはカチッと着てましたけど、カバンに絵を描いたりして、周りからはちょっと変なやつだなと思われていたでしょうね」
普通科の高校だったが、美術大学に進もうと思った。できて2年の高校だったから、今までに美術大学に進んだ生徒もいなかった。
先生には、
「お前の成績で、国公立大学に行けるわけないだろ?」
と言われた。だが一浪して美術予備校に通ったが見事、京都市立芸術大学に合格することができた。
「美術大学に行くことに、両親の反対はなかったです。ただ、とくに芸術に理解があったわけでもないですね。父親に、
『デザイン学科を受ける』
というと、
『デザインは女がやる仕事じゃないのか?』
なんて言われました。
うちの父親はもともと尼崎の食料品店を経営していて、大阪に越してからはお好み焼き屋さんをやっていたんです。ラーメンやカレーもだしていておいしいと評判でした。料理の技術は戦前に、満州にいて覚えたものらしいです。だから、
『技術があるのはいいことだ』
という考えが根っこにあったので、芸術大学に進むことも認めてくれました」
大学へは、実家から電車で1時間半かけて通った。当時の校舎は戦前からある、ボロボロの建物だった。学生の間には、
「もともとは陸軍の病院だったんだ」
などというまことしやかな噂も飛び交っていた。学食の壁にかかっていた時計は電池から茶色い中身が下に溶け出していた。湯呑をひっくり返してみると『愛国婦人会』と書いてあった。
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