28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした

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「中国残留孤児だった祖母とともに、5歳のときに日本に来た」荻原むつきさん(仮名)。その希有な身の上について語ってもらいました(写真:筆者撮影)

中国残留孤児――太平洋戦争が終わったとき、当時の国策により満州に渡っていた日本人たちが命からがら帰国する際、やむなく現地にのこしてきた子どもたちのことです。その多くは、中国人の養父母に育てられました。

日中の国交が回復した1972年以降、徐々に引き揚げが進み、これまで約6700人の孤児・婦人等(家族も含むと約2万1000人)が帰国していますが、日本に帰ったのちも困難は続きました。多くの人が中国語しか話せず、日本の文化にもなじみがないため、大変な苦労をすることになったのです。(厚生労働省「中国残留邦人の状況」より)

「中国残留孤児だった祖母とともに、5歳のときに日本に来た」と連絡をくれたのは、28歳の女性、荻原むつきさん(仮名)でした。祖母が当事者ですから、むつきさんは「中国残留孤児3世」ということになります。

当たり前のことですが、彼女の見た目から、その希有な身の上は想像もつきません。むつきさんは日本に来て、どんな子ども時代を過ごしてきたのでしょうか。

2間に8人、祖父母に育てられた

いったん、歴史を遡ります。祖母は終戦時、中国北東部の村で、比較的裕福な家に引き取られました。よほど能力が高かったのでしょう、大人になってからは、当時女性ではかなり少なかったであろう、ある専門職に就いていました。

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祖母が自分が残留孤児であることを知ったのは、結婚したときでした。育ての親から渡された書類には日本の苗字が書かれていましたが、両親がどこにいるかはわからなかったそう。出身地は九州だろうと政府からは伝えられたものの、結局いくら探しても親族を見つけることはできませんでした。

日本に戻ったのは60歳近くなってからです。支援法が整備され、日本政府がいよいよ本格的に調査に乗り出したことがきっかけでした。祖母には「日本で子どもや孫を生活させたほうが、将来的にいいのではないか」という思いもあったといいます。

1996年、日本での生活は、2間の住まいで始まりました。同居したのは、祖母と祖父、父の姉夫婦とその子ども、むつきさんと父親、父の弟の計8人。夜は「布団をぎっしり敷いて」寝ていたそう。

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