28歳「中国残留孤児3世」が日本で直面した現実 5歳で来日、捨てられた家電を拾って暮らした

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高校に入ると同時に、むつきさんはめでたく、祖父母の家に戻ります。それからは、学校とアルバイトに明け暮れる日々でした。土日は必ず丸一日、平日も夕方からファストフード店で働いて、月20万円近く稼いでいたといいます。

インターネットが広まったおかげで、幼い頃に父と離婚した母親といつでも話せるようになったのも、うれしいことでした。それまでは数年に1度、夏休みを北京で暮らす母親の元で過ごしていたのですが、高2の頃からはSkypeで大好きな母親と好きなときに話ができるようになり、「精神的にも安定した」のでした。

大切なことはみなアルバイトが教えてくれた

英語が得意になったのは、アルバイト先で受けた英語の接客研修がきっかけでした。なんとか例文を覚えようと、携帯でいろいろ調べていくうちに、学校で教わってきた英語と、実際に使う英語がつながったのでしょう。「ああ、そういうことなんだ!」とわかるようになり、以来「英語の成績だけ、すごくよくなった」のです。

バイト先の人たちからも、たくさんのことを教わりました。専門学校生のバイト仲間や、契約社員のお姉さん、店長のおじさんなどからはよく、「将来のことを考えて、今のうちから頑張って」と励まされました。他方では、一流大学の学生たちが「遊び感覚で」アルバイトに来ていたことも、彼女に現実を見据えさせる一因となったようです。

大学は、思い切ってアメリカの州立大学に留学しました。初めは母親のいる中国に留学しようと考えていたのですが、たまたま足を運んだ説明会で奨学金制度があることを知り、アルバイトで貯めたお金でなんとかできそうだとわかったからです。

とはいえ、4年も大学に行くお金はありませんでした。そこでなんとか3年で卒業すべく、ひたすら勉強をして単位を取りまくり、「胃潰瘍になって『もう死ぬ』みたいな感じ」で、日本に帰ってきたということです。

就職は、すぐには決まりませんでした。2012年当時、大卒の就職率は低迷しており、100社に履歴書を送りましたが、すべて不採用とされてしまいます。時々キャバクラで働きつつ就職活動を続けていたところ、2012年5月からようやく、外資系のIT企業で働けることになりました。この会社でキャリアを積んだ彼女は、その後2度、管理職として転職して現在に至ります。

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