「子米朝」の呪縛を解いた桂米團治の新しい芸境

上方落語・三代目桂米朝の長男にうまれて

高座での五代目桂米團治(写真 :佐々木芳郎 提供:米朝事務所)

上方落語は明治大正期に全盛期を迎えたが、初代桂春團治が1934年に死んだ頃から急速に衰退し、戦後は高齢の落語家が数人残るだけになった。この時期にこれら老落語家に入門し、戦後の上方落語を復興させたのが六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治、五代目桂文枝である。この4人は「上方落語四天王」と呼ばれる。

中でも三代目桂米朝は「落語の愉しみ方」を劇的に変えた。1970年代に桂米朝は大阪のサンケイホールで「独演会」を開き、大成功を収めた。これまで落語と言えばこぢんまりとした「寄席」で聞くものだったが、米朝はコンサートのように多くの観衆を集めてたっぷりと演じる「ホール落語」というジャンルを確立した。

また米朝は「桂米朝落語大全集」というレコードアルバムを発刊、これはゴールドディスクを2回も受賞するほど売れた。レコードやCDなどで落語を愉しむスタイルも米朝が開拓したものだ。

米朝落語は、大学生やサラリーマンなど新しいファン層を魅了し、落語の新たな可能性を拓いた。その功績は傑出していた。三代目桂米朝は、2009年に落語界で初めて文化勲章を受章するのだ。

偉大すぎる父の存在

前置きが長くなった。今回登場する五代目桂米團治は、この三代目桂米朝の長男だ。

「米朝の家に生まれました。門の中に住んでいた人間ですから、師匠の門を叩くという行動はできません。歌舞伎と違い世襲ではありませんので、長男だからといって当たり前に継ぐという世界ではないことは重々知っておりました。うちは私の下に双子の弟がいたんですが、母が“3人のうち誰かは落語を継がないと”と言っていたんですね。

インタビューに応じた五代目桂米團治(筆者撮影)

で、高校の時に親父に、“落語家になりたいんですけど”みたいなことを言うたら、“やめとけ!”と一蹴されまして。

“お前は向いてへん。しゃべりもうまいことないしな。それよりも大学行ったらどうや。わしの時代は戦争でなかなか行かれへんかったんや、ほんで市会議員にでもなるか。3000票あったらいけるやろ”と」

取りつくしまもなかった。助け舟を出したのが、米朝門下の二代目桂枝雀だ。米朝の家には米團治が幼いころから住み込みの内弟子がいた。米團治は桂枝雀、桂朝丸(現ざこば)以下の内弟子と実の兄弟のようにして育った。

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