しかし周囲の米團治を見る目は、どうしても「子米朝」だった。また本人もそれを意識していたのだろう。
昭和から平成に差し掛かったころの米朝一門は日の出の勢いだった。戦後最大の爆笑王と言われた二代目桂枝雀、テレビの人気者から実力派へと変貌した二代目桂ざこば、枝雀門下の三代目桂南光。そこに若手の桂吉朝が注目を集めるようになる。もちろん米朝も健在。小米朝はそんな一門にあっては「若旦那」の域を出る活躍は難しかった。
老いた父と「親子の会話」ができるまでに
米團治に襲名話が持ち上がったのは40代半ばのころだ。いつまでも「小米朝」ではないだろうと兄弟子のざこばは、米朝の名跡を継がせようとした。
「枝雀兄ちゃんも俺も名前を襲名させてもろたから、お前も名前継げ、米朝でいこう、と。
僕を武庫之荘(尼崎市)の米朝宅まで連れて行って“師匠、こいつに米朝継がそう思いまんねん、よろしやろ”って。米朝は“ほな、わしはどないなんねん“。“八十八(米朝の俳号=俳句のペンネーム)なんかどうですか”“何を言うとんねん”」となった。
この時期、米朝一門には不幸事が相次いでいた。1999年に二代目桂枝雀が死去。2002年には一門のまとめ役として人望の厚かった二代目桂歌之助が死ぬ。そして、2005年には次代を担うはずの桂吉朝が50歳の若さで病死した。
門弟に相次いで先立たれ、桂米朝の落胆は著しかった。一門の実質的な長兄となったざこばは、師匠米朝に元気を取り戻してもらうために、襲名を画策したのだ。小米朝の襲名は米朝一門の総意でもあったのだ。
2008年、桂小米朝は五代目桂米團治を襲名する。
先代の四代目米團治は米朝の師匠、1951年に逝去しているから五代目は面識はない。本来なら米朝が継ぐべきだが「わしは米朝で終わる」と公言していたから息子が師匠の名を継ぐことになった。
70歳を越えても達者だった米朝が、落語ができなくなったのは喜寿を少し過ぎたころだ。噺が途中でぐるぐると周りはじめ、周囲が見かねて高座から降ろすことになったのだ。こういう形で一線を退く落語家は多い。
以後はもう落語はできなかったが、最晩年まで高座に上がった。二言三言でも米朝が口を開くと、客席は沸いた。
「最終的には僕の判断で、老いた米朝を聞いてもらいましょうよって。衰えて初めて、“ああ、わが親やねんな”と思えるようになって、親子の会話ができるようになったんです」
2015年3月、三代目桂米朝は89歳で大往生した。
最近のことである。筆者は深夜、TBSの番組「落語研究会」で五代目米團治の「たちぎれ線香」を聞いて、その素晴らしさに驚いた(本人は、客席の反応がよくなくて良い出来ではなかったとのことだったが)。
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