新型コロナウイルスによって、落語界も文字どおり“沈黙”を余儀なくされた。ようやく寄席も再開されたこのタイミングで、コロナ直前にインタビューした四代目桂文我の紹介をしたい。
小学校で「病膏肓に入る」
筆者が生の落語会に通い始めたのは、阪急茨木市駅近くの唯敬寺というお寺でやっていた桂枝雀の一門会「雀の会」からだ。
この会が開催される日の夕方、茨木市駅でよく見かけたのが、桂雀司という枝雀の末っ子弟子だった。当時20歳の筆者と1歳違いだったのだが、中学生のようなおぼこい(西日本の方言で「子どもっぽい」)風貌で、鳴り物や見台、膝隠しなどを担いで夕闇の中、すたすたと足早に歩いていた。この雀司が、現在の四代目桂文我だ。
「高校までは三重県の松阪市です。小さいころに浪曲が好きになり、それが演芸との出合いでした。名古屋の大須演芸場が開場すると、連れて行ってもらうようになったんです。寄席では手品とか漫才とかコマ回しとかは面白さがすぐにわかったのですが、落語だけがさっぱりわからなかった。そこから興味を持ち出して、レコードや本を買うようになったんです」
文我はすぐに「病膏肓に入る」状態になる。土曜日は小学校を“自主的に全休”することにした。桂米朝がMCを務めていた関西テレビの「ハイ!土曜日です」からNHK「土曜ひる席」、さらに松竹新喜劇の「道頓堀アワー」までを見続なければいけないからだ。
小学4年のときには落語家になろうと心に決めた文我は、高校に入ると自分で落語研究会を作った。当時は三代目桂春団治が好きだったが、のちに師匠となる桂枝雀と運命的な出会いがあった。
「あるとき、落研の顧問の先生が新聞持ってきはって、『大阪で朝日上方落語名人選があって春団治さん出てるけど行くか?』と言われて何人かで行くことになった。その日の授業は公欠にしてくれた(笑)」
文我はこの落語会でお目当ての桂春団治の「高尾」を聞いた。帰りの電車の時間に気をもみながら落語を聞いていたが、桂枝雀は予定より早く高座に上がった。これが師弟の出会いだった。
「演題は『かぜうどん』。見ているうちに、どんどんどんどん入っていくわけですわ。ほかの師匠も面白かったけど、うちの師匠の落語が終わった時には『この人のとこへ行こう』と思っていました」
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