一途な若者だった。筆者もこの時期に枝雀の「かぜうどん」を聞いて、大げさでなく衝撃を受けた記憶がある。これまでの落語の概念を破壊するような力があった。
文我はすでに当時の人気番組「素人名人会」に出演して、素人落語を演じていた。その番組のディレクターに紹介されて、枝雀の門を叩いた。
「そのディレクターは『枝雀さんは、舞台はああ見えるけど、家の中で香をたいてるような人や』と言いました。高校3年の夏休みに1週間ぐらい、師匠宅へ住み込んで。なんべんか通っているうちに、それやったらやってみるか、ということになりました」
「弟子でいちばん叱られたんじゃないでしょうか」
師匠の桂枝雀は初名を桂小米といった。米團治、米朝一門の出世名だが、小米時代の枝雀は好事家をして「鹿の子絞りのような」と言わしめた、繊細で切れ味のよい高座だった。
それが1973年に二代目桂枝雀を襲名したころから、突如芸風が弾けた。芸の世界でいう「大化け」したのだ。しかし基礎となる話芸がしっかりしていたので、どんなに大暴れしても破綻しない無敵の落語だったと思う。
雀司時代の文我も、甲高い声で繊細で、筆者は若い時の枝雀にいちばん似ているのではないか、と思った。優等生に見えたのだ。
「私は桂九雀さんと同期で、2年間、一緒に師匠の家に住み込んで修業をしたんです。うちの師匠は厳しかった。それに奥さんも浪曲出身の漫才師でしたので、昔の修業でけっこう厳しかったです。でも、18歳で地方から出てきています。右も左もわからへんから『こんなものかな』と思っていました。
師匠には『あんたはええと思うことをやってくれてんのやけど、わしはそれしてほしないねん!』て(笑)。弟子でいちばん叱られたんじゃないでしょうか。その点、九雀さんは本当にしくじらない人でした。『この人しくじってくれへんのかな』と思いました。けど、うちの師匠があるとき『いろいろあるけど、しくじるいうのは思い出になるねんで』と言いました。救われましたね」
桂九雀は、愛興のある芸風で笑いを取るタイプだ。端正で聞かせる芸風の桂文我とは対照的だが、面白いことに性格的には正反対なのだ。
桂文我、当時の雀司の初高座は、1979年の「雀の会」だった。すでに桂枝雀は日の出の勢いだったが、正月などは顔を出し、舞台袖の柱にもたれて弟子の高座を見ていた。時には自らバチを握って寄席の開演を知らせる一番太鼓、二番太鼓を打った。
枝雀は当時40代になったばかり。その後、枝雀は全国的な人気者となり、弟子の高座を見るような余裕はなくなっていく。思えば、贅沢な日々だった。
文我は、枝雀の付き人としてテレビ局や日本中、時には海外で行われた落語公演にも同行した。
「英語は片言もしゃべられへんのに、海外にも連れて行ってもらった。『とりあえず一緒についてきて、わしのそばにおって、落語だけやっとったらええねん』と。うちの師匠によう言われたのは、『すべてのことを覚えといてや』ということでした」
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