筆者は柳家三三(さんざ)という落語家を、シャープで優秀な、エリートっぽい人だと思っていた。それだからこそ東京落語界きっての名人で、大師匠五代目柳家小さんの後継者と目された十代目柳家小三治門下でも、俊秀の評判が高いのだと思ったのだが。話を聞くうちに筆者のこうしたイメージは、ぽろぽろとくずれていくのだった。もちろん、“いい意味”で。
主文「駄目」から始まった師匠小三治との縁
「生まれは小田原です。小さい頃に『文違い』という落語を聞いて。廓噺で子どもが聞くような落語ではないんですが、それを聞いて『面白いものがあるな』って思ったのが原体験なんです」
より本格的な、そして決定的な出会いは中学1年のときだった。
「1987(昭和62)年の8月の20日と日付まで覚えていますけどね。父親の勤めが東京で、とりあえず東京に僕を連れてきて、浅草演芸ホールの昼席におっぽり込んで、夕方また出て来たら迎えに来るからっていうことで1人で見ていたんですね。
そしたら仲入り前がうちの師匠(小三治)で、その高座にワーって夢中になっちゃった。それから小遣いが許す限り、月1回くらい小田原から寄席通いをするようになった」
13歳にして病膏肓に入る、である。
「で、もうどうしても高校に行きたくなくなっちゃった。そこで中学2年の2月に、当時学校にたまたまあった芸能人名簿に載っていた小三治の住所に宛てて『入門したい』って手紙を書いたんです」
普通は芸能人がそんな手紙に反応をすることはありえないのだが、「中学生というのが珍しかったんでしょうね。で、『両親連れて会いに来なさい』という返事のはがきが来た。もうこれは噺家になれるものだと意気揚々と師匠宅に行った」
しかし柳家小三治は「塩対応」をした。
「裁判みたいに、最初に『主文』が読み上げられて(笑)。『駄目』って。で、その判決理由があと4時間(笑)。
まあシンプルに言うと、昔は小学校もろくに出ていないような者が噺家になったけど、今は高校ばかりでなく大学を出た人も多数派になっている。
そんな世の中で、中学卒業という人生経験しかない者が、噺家になって聞く人の心をつかむような話芸ができるとは思えない。せめて高校ぐらい出ないと、ということでした。あとで聞いたら面倒くさいからそう言ったらしいんですけど(笑)」
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