師匠枝雀に四六時中身近に接して、満場の客席を揺るがす「昭和の爆笑王」が、芸の高みを駆け上がる過程をつぶさに見た。
さらに文我は内弟子明けに一門の桂米輔から笛を習った。上方落語の囃子には、笛も不可欠だ。これによって、枝雀の師匠の米朝からも声がかかるようになり、落語会や独演会などでも前座を務めるようになった。
落語家は内弟子修業を明けると、生きていくためにさまざまな仕事に手を出す。落語だけでなく、イベントでの司会や、テレビ・ラジオの仕事、さらには芸能と関係がないアルバイトなどもして生活の糧を生み出そうとする。
しかし文我は、師匠枝雀、大師匠米朝の落語会で師匠の身の回りの世話をし、笛を吹いたり、前座で高座に上がるのが主たる仕事だった。純粋培養されたというべきか。
「うちの師匠の稽古は、ネタを3つに切って、一言一句、口移しに教えます。いわゆる『三遍稽古』ですね。初めのころは簡単には覚えられませんが、丁寧に教えてくれました。
うちの師匠は、弟子の落語でも気に入ったやり方をすると笑うんですよ。『ふふん』ってね。はじめのうちは『え? 私、名人ちがうかな』と思いましたよ。枝雀を笑わせた、と。弟子をちょっと応援してくれる気で笑ろうてはる部分もあったんでしょう。師匠から弟子に気持ちが伝わったのがうれしい、幸せや、と思っていたのだと思いますね」
ストーリーテラーとしての進境
文我は芸の進境も目覚ましく、1983年「ABC落語漫才新人コンクール」審査員奨励賞、1991年には「NHK新人演芸大賞」優秀賞を受賞。若手のホープとして注目された。
師匠枝雀のような爆笑型ではなく、明るい口調で聞きやすく、簡潔でわかりやすい芸風になった。ストーリーテラーとして「子はかすがい」「らくだ」のような大ネタも、「地獄八景亡者戯」のような体力がいる噺、「しじみ売り」や「ねずみ穴」のような人情噺もしっかり聞かせた
特筆すべきは、1992年ごろから続けている子どもを対象にした落語会だ。落語家にとって、小学校低学年は、ある意味で厄介な聴衆だ。ストーリーが理解できないこともあるし、すぐ飽きてざわついてしまう。「学校寄席」などで小学校を回るときに、多くの落語家は子どもにもわかりやすい何種類かの落語をする程度だ。
しかし文我は、子ども相手に本格的な落語を演じ、客席をぐいぐいとひきつけている。文我は子どもに対してことさらわかりやすい言葉で演じようとはしない。しかし、子どもの耳に入ってこない、いくつかの言葉を置き換えている。
例えば「金」。大人の世界では「金」をいろいろな言葉に置き換える。お足、先立つもの、懐具合、ぜぜなどなど。子どもにはこうした言い換えがわからない。子どもに接するとき、文我は金を「お金」とはっきり言う。これによって、子どもは視界が開け、話の筋が追いやすくなる。
「お金」だけでなく「お酒」など、言葉を適切に選ぶことで、子どもにも入り込みやすい落語の世界を作ったのだ。
筆者が落語を聞き始めたころに比べ、客席の高齢化は顕著だ。落語ブームはこうしたシルバー世代が支えているが、次世代の落語ファンを作るためにも、子ども落語は重要な取り組みだろう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら