「ほぼ仕事」教師が部活動に縛られる根深い事情 自由であるために制度化できない?
たとえば、漫画『SLAM DUNK』では、不良生徒だった三井寿も「バスケがしたいです」って言うでしょう。実際に当時の教員の手記の中にも、「勉強はからっきしだけどバレーボールに熱中している生徒を、部活動を通じて人間関係を作り更生させていくんだ!」といったものもあります。
しかも、こうしたテーマで『SLAM DUNK』や『ROOKIES』のような漫画やドラマが作られ、部活動の良さが広まっていき、人々の間に部活動の存在が定着していきました。
部活動と教員のジレンマ
――民主主義的な教育、生徒との関係性における部活動の重要性はわかりますが、なぜ教員は自ら部活動という仕事を増やしてしまったのでしょうか?
日本教職員組合(日教組)の主張を見てみると、1970年代前半までは「部活動は大変だから、学校の外に出そう。教員の仕事じゃないんだ」と言っているんです。しかしその後「大変だけど部活動は必要かも」といった主張が出てくる。
ここには日教組が労働組合であると同時に、より良い教育を目指す教育団体であることのジレンマがあるんです。
当時、部活動を外部の活動にしようとすると、柔道や剣道を教えているのは警察だ、夏休みの野外キャンプは自衛隊の主催だ。スポーツ少年団の主催団体・日本体育協会は自民党議員がメンバーだと、日教組の考える民主主義的な教育とは距離のある体制側に子どもたちを預けていいのだろうか、と懸念するんですね。
外部に託すことができないなら、きちんと部活動を教員の仕事と位置付ければいいと思いますよね。実際、国は1960年代後半の学習指導要領から「必修クラブ活動」というものを始め、部活動を制度化し、授業のようにしていく政策を打ってきたんです。
これに対し、日教組は教育への政府の介入を警戒しました。教員が自主的にカリキュラムを編成していく権利を奪われるのではないか、教育の自由が失われるのでは、と。
そういう意味で、教育課程外の部活動は、まさに政府の介入を防いで教育の自由を守れるかどうかの試金石になったんです。
法律や歴史についてお話ししてきましたが、制度的にはっきりと位置付けられていないため、部活動はあいまいなままここまできました。なぜはっきり位置付けられないかというと、自主性という理念を掲げてしまうと自由度が必要。自由であるためには部活動は制度化はできない、というわけ。つまり、“自主性”の理念が根本問題とも言えます。