創業174年、ハチ食品がカレーにこだわる理由 「国産カレー粉」第1号企業のサバイバル戦略

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そもそもカレーは、インドを植民地としていたイギリスを経由して明治初期に日本に伝えられたといわれている。明治30年代にはカレーライスは洋食屋の一番人気となり、婦人雑誌にはカレーライスのレシピが紹介されるなど、定番メニューとして定着してきた。

蜂カレーの特設販売所1938(昭和13)年(写真:ハチ食品)

当時のカレー粉といえば、イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル社(C&B)製の「C&Bカレーパウダー」であった。

表示法などが整っていない時代のため、カレーパウダーの原料や成分は日本人にはまったくわからず、「魔法の粉」として流通していた。

とくに料理人にとってはカレーづくりにはC&Bカレーパウダーは欠かせないアイテムだった。そうした中で、蜂カレーが世に送り出されたのである。

蜂カレーはその後全国の家庭に広がっていった。残念ながら同社は戦災で社屋が全損したため、戦前期の資料がほとんど残っておらず、当時の事業状況については不明な点が多いという。それでも、商品の展示会や、本社社屋の写真などが残されており、蜂カレーが広く愛されていたことがうかがえる。

業務用に特化し、復活を図る

戦後、焼け野原となった本社を離れ、現・本社所在地の西淀川区御幣島に移転し再スタートを切った。戦後復興とともに食糧事情も徐々に改善、戦時中より続いていた統制制度も、緩和や撤廃されていった。

その中でカレーは作りやすく栄養バランスが取れているということから学校給食に採用されたことも追い風となり、食品メーカーはこぞってカレー粉、カレールウを発売、積極的に広告を打ち、価格競争が激しさを増していった。

そうした状況下で、ハチ食品は同業との競争激化のあおりを受けて事業が立ち行かなくなり、1956(昭和31)年に会社更生法の申請に至ってしまう。その6年後の1962年には更生計画が完了、同族経営を脱した。社名もそれまでの今村食糧から蜂カレーに変更、再スタートを切る。

その後は、大手企業のOEM(相手先ブランドの受託製造)を主体に、残りの自社販売のほとんども業務用が占めるなど、生産に特化した事業展開を続けてきた。とくに大阪、神戸、京都などの学校給食用のカレーでは同社のカレーが採用されているという。

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