浅草開化楼は1950年創業と68年の歴史を持つ老舗ながら、最初から今のような地位を築いていたワケではなかった。
1990年代までは、浅草開化楼の麺を使っているラーメン店で、ちまたのラーメン本に載るようなお店は1~2軒程度。飛躍したのは2000年代に入ってからだ。
仕掛け人は、フリープロレスラーながら浅草開化楼で製麺を手掛けている負死鳥カラス氏。手を付けたのは「つけ麺専用」の麺の開発だった。それまでのつけ麺の麺はラーメン用の麺を太く切り出したものが主だったが、つけ麺用に、コシのある新しい麺を作った。まだ、つけ麺ブームが来る前のことだ。
偶然にも、その開発を追ってくるようなタイミングで「六厘舎」や「つけめんTETSU」などとの取引が始まり、浅草開化楼の「つけ麺専用麺」へ一気に注目が集まった。
つけ麺ブームとともに
それまで本来、裏方に徹すべきだった製麺所の名前が当たり前のように語られるようになったのはここからである。つけ麺ブームとともに浅草開化楼の名は広く知られるようになり、お店に麺箱を置いて開化楼の麺を使っていることをアピールするお店も多数現れた。
ただ、負死鳥カラス氏によれば、麺の卸値はラーメン用で1玉50~60円、つけ麺用は70~80円程度だという。この水準はここ20~30年間変わっていないそうで、製麺のビジネスは決して大儲けできるものでもないと言えそうだ。
今回の取材にあたり、筆者は浅草開化楼の工場を見学した。
筆者はすべて機械を使った製造工程を想像していたのだが、そこで見た光景は大きく違った。40坪程度のスペース。機械は少し使ってはいたが、20人ほどの従業員による手作業の工程がかなり多かった。それがおいしい麺を作るコツの1つだという。
ただ、それだけに作れる数の上限が決まっている。1日当たり3万~4万玉、納入店舗数に換算すると700~800店舗分が限界なのだ。これ以上の数は作れない。そのために離れていったラーメン店もある。実は「六厘舎」や「TETSU」も、店舗展開を広げる中で離れていっている。
「多店舗展開などであまりにも大きくなりすぎると、正直対応しきれない、というのが正直なところでしょうか。こちら側から断ることは基本ありませんが、限界はあります。正直な話、物理的に遠いラーメン店からの注文は基本的にもう受けられなくなっています」と負死鳥カラス氏は言う。
それでも機械を使うなど、さらなる大量生産をあえてしないのが、浅草開化楼のこだわりであり、麺の美味しさを保つために必要なことなのだろう。今までの麺をどうアレンジしてラーメンの進化に対応していくか。古くて新しい難題である。
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