道徳教育が必要なのは「ゲスの極み」な大人だ 小中学校での「教科化」が目指すべき真の目的
「サムライ」戦士たちの「清々しさ」
サッカーワールドカップロシア大会が7月18日閉幕しました。日本代表チーム「サムライブルー」の戦士たちの、じつに「きよきよしい」……いや、「すがすがしい」活躍は、まだ記憶に新しいところでしょう。
たしかに、大会途中には、「サムライブルーはサムライではない」といった、厳しい批判を浴びたこともありました。言うまでもなく、あのポーランド戦終盤の「ボール回し」戦術です。
それについては、いまでも賛否の分かれるところではあるでしょう。私自身も、全面的に肯定とも否定ともいえない、微妙な思いが残ります。
しかし、1つ考えてみてください。
もし、同じ状況で、同じ戦術を、フランスやベルギーといったヨーロッパのチームがとったとしたら、それでも今回と同じようなバッシングが巻き起こったでしょうか。
たしかに、批判が出たことは出たでしょう。けれども、おそらく私たちは、「やっぱりヨーロッパは合理主義だなぁ」と、諦めて納得するしかなかったのではないでしょうか。少なくとも、日本代表が国内外から受けたような「汚い」「醜い」「それでもサムライか」などといった激しいバッシングにまでは、ならなかったのではないかと思われます。
つまり、あの「ボール回し」が激しい批判を浴びたのは、いやしくも「サムライ」を名乗る「日本」の代表チームであるからには、正々堂々、潔く、清々しい戦いぶりをみせてほしいという、期待や願望の裏返しでもあったわけです。しかも、その期待や願望を、日本人のみならず、世界の人びともまた、共有していたのです。
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