道徳教育が必要なのは「ゲスの極み」な大人だ 小中学校での「教科化」が目指すべき真の目的

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だから、その後、力の限り正々堂々と戦ったベルギー戦での戦いぶりや、何より、それに敗れた後、ロッカールームをみずから清掃し、「スパシーバ(ありがとう)」と書き残して去っていった、あの潔く美しい去り方が、やはり国内外からの激賞を受けたことは、じつは「ボール回し」が酷評を受けたことと、表裏の関係にあるわけです。「それでもサムライか」という侮蔑を受けた日本代表は、「やっぱりサムライブルーはサムライだった」という尊敬を得て、「サムライ」にとって何よりも大事な、「名誉」を回復したのです。

若き「サムライ」とゲスの極みな「大人」

ところで、「サムライ」と聞いて、私が思い出すのは、同じスポーツ界で、少し前に起こった一大事件、すなわち日大アメフト部の悪質タックル問題です。

ワールドカップの熱狂にかき消されて、もはや「そういえば、そんなこともあったな」という過去の出来事になろうとしていますが、これはいろいろな意味で、現代の、そして将来の日本を考えさせてくれる、たいへん示唆深い出来事であったように、私には思われます。

この事件でも、「顔を出さずして何が謝罪か」といって、メディアの前に堂々と顔を出し、実名まで公にして、正直な言葉と誠実な態度で、心を尽して謝罪した、加害選手の潔く清々しい姿が話題になりました。

いや、より正確にいえば、嘘とデタラメを並べ立て、本来守るべき学生にむしろ罪をなすりつけ、なんとしてでも地位を保って利権にしがみつこうとする、あのあまりにも醜く恥知らずな監督(当時)の姿と、一度はその監督の権力に屈したものの、あくまでもみずからの良心に従って行動し、潔く謝罪した加害選手の姿との、あまりのコントラストに、日本国民は、ほとんど唖然とするほかなかったのです。

私が印象的だったのは、テレビの街頭インタビューなどで(もちろん、それは意図的に編集されたものではあるのでしょうが、そうであるとしても)、世代を問わず、多くの人が、加害選手に対して、「潔くて立派だ」「正直でいい」「誠実な態度でよかった」等々といった、圧倒的な好感のコメントを寄せていたことでした。

それのどこが印象的なのかといえば、まさにこれらの「潔さ」「正直さ」「誠実さ」という観念こそは、いわゆる伝統的な「武士道」という思想において、最も核心的な価値とされてきたものであり、また、したがって、近代になってからは、「日本人」が最も大事にすべきとされてきた、道徳的価値にほかならないからです。

これだけ、カネがすべて、利益がすべて、経済がすべてという世の中にあって、それとはほとんど正反対ともいえる「サムライ」の道徳が、まだ日本の庶民たちのなかに生き続けていたのだということに、私はむしろ、新鮮な驚きを感じました。

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