道徳教育が必要なのは「ゲスの極み」な大人だ 小中学校での「教科化」が目指すべき真の目的

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というのは、じつはそれは、かつて明治において、「近代日本」の建設に立ち会った人びとが、理想としてめざしていたことでもあったのです。『武士道』で有名な新渡戸稲造だけではありません。福沢諭吉や中江兆民など、立場は異なれど、それぞれに日本の近代化のために尽くした人びとは、みな一様に、日本が近代化をめざす真の目的は、日本人の道徳的な向上にこそあり、それはすなわち、日本人が「サムライ」になるということである、と考えていました。

福沢諭吉は、近代の日本人が何よりも大切にしなければならないのは、「富」を失っても「名」を貶めてはならぬとする、「やせ我慢」の「士風」であると力説しました。中江兆民は、西洋近代社会でいう「市民」とは、日本でいう「士」であると言いました。つまり、民主主義とは、国民全員が「士」すなわち「サムライ」になることだと、彼は考えたのです。さらに意外に思われるかもしれませんが、兆民の弟子で社会主義者となった幸徳秋水は、国民全員が「武士道」という道徳的理想を実現することこそが、社会主義のほんとうの目的なのだと訴えました。

これが、彼らにとっての「近代日本」だったのです。

自然な欲望の追求は「奴隷」の道徳

そして、彼らが最も恐れたのは、カネがすべて、利益がすべて、生産性がすべてという価値観に支配され、経済成長こそが国家の至上命題となるような社会でした。それは彼らにとって、人間が「人間」としての名誉と誇りをかなぐり捨て、みずから「奴隷」となることに満足を見いだすような社会だったのです。

なぜなら、「奴隷」とは、自分で自分を支配し、独立するのではなく、自分以外の何ものかに服従し、支配される存在であるからです。おのれの利益や快楽を求める本能的な欲望に抵抗しようとせず、その支配に、みずからを喜んで委ねる者。強力な権力者が自分(たち)を支配してくれることに、むしろ平和と安楽を見いだし、みずから望んで、その支配に服従しようとする者。それが「奴隷」にほかなりません。

私たちが、「サムライ」という観念に、まだどこか「人間」としての理想をみているのだとすれば、それは、私たちはけっして、そのような奴隷の生き方も、奴隷の社会も、望んではいないということです。そのことを、私たちはまず、はっきりと自覚する必要があります。

スポーツ選手だけが、スポーツの世界のなかだけで「サムライ」であっても、意味がありません。国民一人ひとりが、それぞれの現実の生において、「サムライ」の道徳を実現してこそ、はじめて日本人は、奴隷状態を脱却し、人間として、また国民としての、「名誉」を獲得(回復)することができるのです。

「道徳教育」とは、そのためにこそ、あるものではないのでしょうか。

古川 雄嗣 教育学者、北海道教育大学旭川校准教授

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ふるかわ ゆうじ / Yuji Furukawa

1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。現在、北海道教育大学旭川校准教授。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『大人の道徳ーー西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『看護学生と考える教育学――「生きる意味」の援助のために』(ナカニシヤ出版、2016年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)、共著に『道徳教育はいかにあるべきか――歴史・理論・実践』(ミネルヴァ書房、2021年)などがある。

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