道徳教育が必要なのは「ゲスの極み」な大人だ 小中学校での「教科化」が目指すべき真の目的

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ところが、です。ほかならぬその安倍首相こそ、2006年の第一次政権以来、「最近の若者には道徳教育が必要だ!」と声高に訴え続け、教育基本法の改正や「道徳」の教科化を断行した、張本人なのです。

こうなると、この主客転倒ぶりは、ほとんどグロテスクであるとさえ、言わなければならないでしょう。ともすれば、自身の道徳性のあまりの欠如に対する心理的な不安から、それを「国民」や「若者」に投影しようとする、病的なメカニズムがはたらいているのではないかと、疑いたくなるほどではないでしょうか。

誤解のないように断っておきますが、私自身は、「道徳教育」は必要であると考えています。「道徳教育」は、「学校」という近代の公教育制度が担うべき、本質的な役割の1つです。だから、「道徳は個人の内面の問題だ。教育がそこに介入してはならない」などといった、戦後日本のステレオタイプな道徳教育批判に与するつもりは、まったくありません。「道徳」の教科化にも、原理的には賛成です。

けれども、むしろそういう思想的立場からみて、安倍政権による道徳教育政策は、まったくナンセンスで、首をひねるどころか、頭を抱えざるをえないものなのです。

福沢諭吉、中江兆民、幸徳秋水の「武士道」と「道徳」

では、いま本当に必要な「道徳教育」とは、どのようなものなのでしょうか。

それは、若者や子どもに、「道徳心」を植えつけることではありません。「道徳心」が低下しているから、それを植えつけるべきだという話ではないのです。

サッカーワールドカップや、日大タックル問題が示しているのは、「最近の若者」は、じゅうぶん道徳的だということです(ワールドカップでは、サポーターが会場のゴミ拾いをしていたというではありませんか)。そして、それを道徳的だと評価できる大多数の国民も、やはりじゅうぶん道徳的なのです。彼らはみな、「サムライ」の何たるかを、いわば肌感覚として、知っています。つまり、「サムライ」の道徳は、日本国民のなかに、暗黙の規律、いわば「心の習慣」として、いまなお、生き続けているのです。

大事なことは、その暗黙の規律として、日本国民のなかに生きている道徳心に、言葉と論理を与えることです。そして、それによって、いわば無自覚に抱いている道徳心を意識化し、みずからのものとして、自覚的に追求することができるようになるということです。それが、ほんとうに必要な、日本人の道徳教育であると、私は考えます。

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