《若手記者・スタンフォード留学記 11》アメリカで考える、日本の雑誌とジャーナリストのこれから
前回(→快楽のないアメリカ文化、成熟国家の若者には物足りない?)では、アメリカでの生活に娯楽がないと書いてしまいましたが、そんな私にとっても心躍る時間はあります。それは、図書館で、雑誌・新聞を読み漁っているときです。
『エコノミスト』『タイム』『ニューズウィーク』『ビジネスウィーク』『ハーパーズ』『フォーリン・アフェアーズ』『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』などなど、面白そうな記事があると目を通していますが、アメリカの活字媒体を読んでいると、2つの点で日本のメディアとの違いを感じます。
それは、「事実と分析のバランス」と「ジャーナリズムとアカデミズムの距離」です。端的に言うと、日本と比べ、アメリカの雑誌・新聞は、”事実”の提示よりも”分析”を重視し、かつ、ジャーナリズムとアカデミズムの垣根が低いのです。
分析重視のアメリカメディア
日米の差が如実に現れるのは、カバーストーリー(目玉記事)に選ばれている記事の内容です。アメリカでは、「日本だとこれはカバーストーリーにはならないだろうな」という堅い内容の記事が表紙を飾ったりします。
たとえば、10月2日号の『タイム』誌のカバーストーリーでは、「The End of Prosperity?(繁栄の終わり?)」と題して、ハーバードの歴史学の教授が、1929年の大恐慌から今回の金融危機への教訓を導き出しています。他にも、8月4日号の『ニューズウィーク』では、UCバークレーの教授が、孫文や魯迅の言葉を引用しながら、中国のナショナリズムを分析していますし、10月11日号の『エコノミスト』では、IMF(国際通貨基金)のレポートを基に、現在の金融危機の本質的な意味を分析しています。
つまり、アカデミズムの人材や研究成果を存分に活用しながら、(多くの場合)高レベルな分析が展開されているわけです。
翻って、日本のメディアで抜け落ちているなと感じるのは、この「分析」のところです。
日本の新聞はアメリカの新聞に比べ、「分析」より「スクープ、事実」に重点をおいていると思われます。一方、『正論』『諸君』『中央公論』『VOICE』『世界』といったいわゆるオピニオン誌は、その名のとおり、分析よりも、オピニオンが中心です。その狭間にある、週刊誌も、事実か、ハウツーか、物事の解説をもっぱらにして、分析は二の次、三の次になってしまっています。つまるところ、日本には、高レベルな分析を安定的に提供している媒体がないわけです。
その背景には、「堅い分析記事は売れない」という現実的な事情があるのでしょうが、それ以上に、鋭い分析をわかりやすい言葉で披露する「分析のプロ」の層が薄いという要因が大きいように思えます。
アメリカでは、有名な学者が書いた堅いタイトルの本でもベストセラーに入ります。それは知識エリートの層の厚さにもよるのでしょうが、難しいことをわかりやすく、面白く書くスキルが高いという面も見逃せません。
実務家は学者をバカにし、学者は実務家をバカにする
日本でも、各業界に優秀な人はたくさんいます。ただ、その能力が偏っていて、「帯に短し、たすきに長し」になっているように感じるのです。
たとえば、新聞記者。
夜討ち朝駆け(朝晩に、取材先の家を直接訪問する手法)を繰り返す新聞記者のスタイルは、効率性に疑問はありますが、生の情報をとるにはやはり効果的な手段です。そして、やっぱり記者は普通の人が知らないような面白いストーリーをいっぱい知っています。
ただ、そうしたファクトを、体系化したり、人を引き込むストーリーに仕立て上げるスキルに乏しいため、新聞記者が書いた本は、大体面白くありません(加えて、ほんとうは一番面白いのに、様々なしがらみがあるため公開できない話も多いはず)。
似たことが実務家にも言えます。現場のプロは、インパクトのある経験を数多く持っているのですが、文章力や体系化する能力が高くないため、自慢話・苦労話の類で終わってしまうことが多々あります。一方で、学者やコンサルタントの場合、論理的な厳密性は高く、体系的にまとまっているのですが、文体が堅く、リアリティーや面白いエピソードに欠けるため、娯楽性に乏しいケースが多い。
互いが歩み寄って、それぞれのスキルを共有できればいいのですが、実務家はアカデミズムの世界を「机上の空論」と馬鹿にし、アカデミズムの人間は実務家を「理論を知らない」と馬鹿にしてしまうため、両者の溝はいっこうに埋まらない、というのが今の日本の現状ではないでしょうか。
では、こうした傾向をどうすれば解決できるのでしょうか?
それは、「異業種交流」と「ジャーナリストの進化」しかないと思います。