小さい頃から異様に忘れ物やミスが多く、整理整頓がまったくできなかった。また、教科書はすぐに角がめくれてボロボロになり、なぜほかの人の教科書は角がピンとしたままできれいなのか不思議でたまらなかった。しかし、いくら努力しても教科書の角をきれいな状態に保つことができず、自分がほかの人と少し違うことを自覚させられた。細部にまで意識がいかず、雑な扱いをしていたのかもしれない。
少し乱雑なところのある竹村さんだったが成績は優秀だったので、親は特に心配することはなかった。彼が本格的につまずいたのは京都大学を卒業後、就職してからだ。
「金融機関に就職したのですが、他の同期がすぐにできるようになる電話応対などが、自分はできない。でも、周りの人がとても優しくて『ゆっくり長い目で見てあげよう』という雰囲気で助かりました。問題だったのが、出向になった2社目の会社です。怒鳴るパワハラ系の上司にあたってしまったんです。しかも、担当は経理。細かいことを大量に、納期までに正確にこなさないといけないことが、本当に苦手でした」(竹村さん)
このとき、病院は受診しなかったものの、今思うとうつの症状が出ていたという。情緒不安定になって通勤中の電車で涙が止まらなくなる、会社に行くまでの道で足が動かなくなり、10分くらい立ち尽くしたこともあった。また、いちばんひどかったときは、自然に足がふらっと特急電車に向かって飛び込みかけた。
自分はほかの人が普通にできる仕事ができない――。なぜなのか悩み、大学時代の先輩に相談したところ、「ADHDなのではないか」と言われた。その先輩もまた、ADHD当事者だった。その後、大学病院を受診してADHDの診断が降りたのが25歳のとき。診断が降りたときは、仕事ができない理由がわかって心からホッとした。精神的にも追い詰められていたため、出向していた会社は1年半で退職した。
重要なのは“能力×仕事のしやすさ”
27歳で会社を辞めてフリーランスになったものの、仕事はほとんどなかった。食べていくには働かなければならない。そこで、いちばん時給の高かった塾でアルバイトを始めると、教えることの楽しさに目覚めた。教える仕事ならできると思った。ただ、教える仕事自体は評価されても、職場の人間関係がうまくいかない、仕事の納期が遅れるなど、周りに迷惑をかけることが多かった。全力で取り組んでいるのに納期が遅れてしまう。納期ギリギリにならないと取り組めないのだ。
別の塾から社員登用の話も来たが、社員になると管理業務が発生する。それは自分が苦手な分野の仕事だ。そうなるとまた、会社員時代のように崩壊してしまう。しかし、アルバイトのままだと生活ができない。経済的にはどん底の最中、当時交際していた彼女との結婚も決まり「最初のうちは妻に食べさせてもらうヒモ状態だった」と笑いながら語る。
「婚約前に、彼女に発達障害であることを振られる覚悟で告白しました。彼女の答えは『多分そうだろうなと思っていた』で、拍子抜けしました。妻は以前、学童保育で働いていたので、発達障害の子どもも見ていて知識があったようです。それで、この人と結婚したいと改めて強く思いました。この人なら自分のことを受け止めてくれると。
ヒモ状態を脱却するためにはフリーの講師になろうと、1日当たりの単価が塾より高い大学講師の道を選びました。そして今に至るのですが、この10年間はトントン拍子とは言えませんでした。うまくいかないことに絶望して、『死』が脳裏をよぎることが何度もありました」(竹村さん)
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