「可能なるコミュニズム」はネット社会だったのか
歴史家の網野善彦は晩年、共産主義という用語は歴史上、最大の誤訳の一つではないかと語ったことがある。
対談集『「日本」をめぐって』で小熊英二氏に述べたもので、しかしどう訳せば正しいのかは示していないので、その真意は判然としないのだが、最近、ふとこういうことかな、と感じる機会が増えた。
網野は従来の日本史学が農民を中心とする歴史叙述に偏ってきたことを批判し、商業・流通業者や芸能民など、一か所に定住せず漂白しながら生活する人々に着目したことで知られる。
だとすると共産主義という訳語についても、それが共同で「生産」するというイメージに陥った点を、問題にしたのではないか。
実際、冷戦下の共産圏で行われたのはもっぱら生産現場の国有化だったが、これは結局、資本家ではなく国家が労働者から搾取するだけの体制に帰結した。
しかし共産主義の原語はコミュニズムだから、本来は「ものを作る」という意味あいはない。むしろ、土地や資産の所有者を決めずに「みんなで分けあっていこう」というニュアンスに近い。
そう考えると皮肉なことに、グローバル資本主義の下で私たちは、部分的にはコミュニストとして暮らし始めているのかもしれない。その典型がインターネットだ。
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