ある法案の賛否をめぐる投票に当たって、人々は直接「賛成」「反対」の1票を投じてもよいし、「0.6票を賛成、0.4票を反対」という投じ方をしてもよい。またその見識を信頼して判断を委ねたいと思う他人に、自分の1票(ないしその一部)を委ねてもよい。自国の政治よりも大きな影響を自分の生活に与えると思うなら、海外の人に1票を譲渡して、他国の政治で使ってもらう手もある。
かような制度の方が、「自国の諸政党が推薦してきた立候補者の中から、一人だけを選ぶ」現在の民主主義よりも、よほど魅力的ではありませんか、という。
この視点が面白いのは、独裁制から直接民主制に至る政治的な諸形態を、プレイヤーの投票行動に依存したチューニングとして連続的に捉えられることだ。
全有権者が特定の一名に自身の1票を預ければ独裁になるし、他者への譲渡を誰も行わず、全員が自身の判断で賛否を投じたいと望めば直接民主主義になる。人類史上、種々の政治体制が現れては消えていったのも、そのような人々の願いの反映だったのかもしれない。
一人一人が評判を競い合う、競争社会の先駆は中国に
もっとも、かように社会をなめらかにする試みが、著者がいうような西洋近代の「バージョンアップ」になるかどうかには疑念もあろう。一人一人が相互に独立し、平等に1票を持つ「個人」という西洋近代の幻想を放棄することは、かえって「近代以前」の歴史に回帰することにはならないのだろうか。
鈴木氏は経済の面でもPICSYという独自の通貨を提案する半面、それが頼母子講のような、前近代の顔の見える互助的貸借関係に近いことを認めてもいる。
一人一人が「自分株」を発行し、その株券で物品やサービスを購入する。店の側は、株を発行した客が将来成功すれば得をする、というシステムだが、発行された「自分株」の価値は現今の通常貨幣と異なり、その人のパフォーマンスによって不均等になる。
先の分人民主主義にしても、脳裏に浮かんだのは小島毅『東アジアの儒教と礼』にある、朱子学の意義の解説だった。古代の儒教では「聖人」は王を指し、衆庶と隔絶した存在だったが、朱子学はあらゆる人間を高貴な天理と卑しい人欲の割合で把握することで、いわば聖人を「なめらかな存在」にしたのである。
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