「あの戦争」から遠く離れて 自己同一化か、それとも差異化か、歴史を文学にする二つの方法

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終戦から68年、いまの世代にも「過去は甦る」のか

著者:與那覇潤(歴史学者、愛知県立大学准教授) 撮影:今井康一

8月15日の終戦記念日(玉音放送の日)を中心として、今年も「あの戦争」を振り返る季節がやってきた。この夏もルポルタージュやドキュメンタリーからドラマ・映画・アニメまで、メディアはしばらく「戦争もの」一色だったといえよう。

もっとも、それらが本当にこの時期、国民の涙を誘い平和の誓いを新たにさせているかといえば疑問だ。

いまや本人が戦争体験を持たないことはおろか、親族にも体験者がいない、ないし体験者に会ったことがない世代がめずらしくない時代である。

恒例の年中行事をどこか他人事で「この時期だけ白々しい」と思ってしまう感性を、不謹慎だと非難するだけでは、もはやこの国の体験は継承されえない。伝えるためには、なんらかの工夫が必要なのだ。

残酷なまでにその速さを緩めず流れゆく時の中で、これまでしばしば用いられてきた技法は、戦前から遠く離れた現在のわれわれであっても、その「ルーツ」をたどると捨て去ったはずの過去に行き着く、という作劇術だった。

戦争以外の主題を扱うとはいえ、水上勉と内田吐夢の『飢餓海峡』(1963年、映画は1965年)や、松本清張と野村芳太郎の『砂の器』(1961年、映画は1974年)、森村誠一と佐藤純彌の『人間の証明』(1976年、映画は翌年)など、「封印してきたはずの出自が現在に復讐する」物語が繰り返し国民の関心を呼んできたのは、「奇跡の復興」をなしとげたはずの戦後日本がどこか、自らの過去に対してうしろめたさを感じてきたことの証左でもあったと、大澤真幸『不可能性の時代』は述べている。

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