――「少年H」を執筆した妹尾河童さんは、これまで同作の映画化オファーを断り続けてきたと聞きました。そんな妹尾さんが今回、映画化を許可した経緯はどのようなものだったのでしょうか?
プロデューサーがお父さん役を水谷豊さん、監督を僕ということで話を持っていったのです。河童さんも、それならいいと言ってくれた。ただ、本人に会って確かめたいということだったので、ホテルで河童さんと会いました。「初めまして」とあいさつをしたら、河童さんから「本物ですか?」と言われて。「触ってください」と返しました(笑)。
「落とされた側」の写真がない
――妹尾さんが降旗監督ならと映画化を許可したのも、この時代を降旗監督がご存じだからというのもあるのではないでしょうか?
それはあったと思います。しかし、当時を知っていると言っても、暮らしていた場所によっていろいろです。僕の郷里の長野県はB29の大編隊の通路でしたが、爆撃と云えるような爆撃は受けませんでしたし、敗戦まじかには僕(10歳)がいた松本にも艦載機が飛んできましたが、低空で示威飛行を行っただけでした。だから本当の空襲や爆撃について僕は知らないわけです。
もちろん若いスタッフも、実際の戦争を知りません。だから当時の資料を集めて調べる以外にしょうがなかった。そうやって作った作品ですが、爆撃に実際に遭われた方からも、あのとおりだったと言ってもらえたので、よかったと思っています。同じ時代を過ごしたといっても、いろいろですよね。
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