いま本当に分ちあいたい、「300年後」への歴史感覚
修養を通じて自己の内の人欲の割合を抑え、天理の比率を100%に近づけることで、人は誰しも聖人たりうる。この発想の転換が中国では近代革命を待たずに、科挙制度による身分制の撤廃を可能にしたのだが、その後にもたらされたのは儒教的な徳(名声)の有無が社会的な地位の高低と連動する、過酷な競争社会だった。
今ならさしずめ、「いいね!」やフォロワー数の獲得合戦だが、票の譲渡を認める分人民主主義は、その効果を政治的な権力配分にまで波及させるものともいえる。
とはいえ既存の常識を取り払って、新しい社会を構想するのは常に楽しい。300年後の読者を意識するという鈴木氏は、たとえばワイマール民主政からナチス独裁への転換を「記憶に新しい」ものと記す。
先行きの見えない時代、今日や明日のページビュー数を気にするのではなく、人類の歩み全体の中で自らの位置を捉え返すこの時間感覚こそ、広く分かちあいたいものである。
【初出:2013.9.7「週刊東洋経済(楽天vs.Tポイント)」】
(担当者通信欄)
同時代を生き、同じニュースを見ながらも、日々独自の悩みを抱え、いま何を読むべきかはシビアに選んでいる、そんな読者の方々の何人に届いただろうか、と担当記事のページビューに一喜一憂することをやめられない昨今です……。が、今年の話題書『なめらかな社会とその敵』にある300年後を意識するというスケールの大きな時間感覚は、毎日に追われる私たちが、自分自身を客観的に見つめ、適切な評価をくだすための契機にもなるのかもしれません。短期に長期、改めて、どちらも大切にしていきたいものです。
さて、與那覇潤先生の「歴史になる一歩手前」最新記事は2013年9月30日(月)発売の「週刊東洋経済(特集は、株・投信の攻め方、守り方)」に掲載!
【冷戦を知らない子供たちへ、進歩をやめた歴史を生きる】
一年にわたる連載も今回が最終回です!
冷戦当時、それぞれ資本主義と社会主義の下、米ソが軌跡を一つに描いたのが、右肩上がりに生活水準が向上していくという夢でした。そんな大衆の夢が滅び、冷戦の記憶をそもそも持たない世代が増えてきた中で、希望の形はどんなふうに変わったのか?円環をなす時間、時間ループの物語は何を意味するのか?
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