筆者の人間観を一例として書き記しましょう(繰り返しますが絶対的な正解はありません)。まず、「人間とは偉大な本質を持った存在だ」と定義します。「人間は罪深い」「人間は罪業深重の凡夫」という人間観ではなく、「人間、誰もが輝くような能力を持っている。自分も持っているけれども、それぞれの人が持っている」。こんな人間観を確立するということが必要ではないかと思います。
もちろん、人間には、愚かしい面、弱い面、自己中心の面、争いごとを起こす面、他人をうらやみ貶める面など、確かにあります。しかし、逆に、賢明な面、強い面、温かい心の面、和する面、などもあります。そのどちらかを見るかによって、人間の本質は善だという人もいれば悪だという人もいるわけです。
しかし、人間をそのように一方の角度から見るのは止めるべきです。そうではなくて、人間の本質は「この宇宙や地球を、よりよくしていく力を持っている一方で、それらを破壊、消滅させてしまうほどの大きな力を有する偉大な存在」だと考える。善とか悪だとかではなく「偉大な力」「とてつもない能力」を有しているととらえてみたらどうでしょうか。
人間は卑小な存在ではない
「つまらない存在」「小さな存在」ととらえるならば、人間がどのような悪事をしても(たとえば、汚水を海に垂れ流しても、大気汚染をしても、あるいは、森林を伐採し地球を温暖化しても)、人間の行いだからささいなこと。人間なんて小さな存在なのだから、この宇宙が、この地球が、大自然が、それらを受けとめ、許容し、浄化してくれるはずではないか、と考えてしまう。神はそのような人間の「ささいなこと」を受け入れる寛容さがあると考えてしまうのではないでしょうか。
しかし、現実はそうではありません。いまや、人間は核使用によって、生産活動によって、生活空間の建設によって、宇宙に人工衛星の残骸をばらまき、地球を破壊し、自然を消滅させ、万物を抹殺するほどになっています。
これほどの力を持った人間を「卑小な存在」とか、「小さな存在」「ほかの生物と同じ存在」と理解していいはずがありません。そのような人間観を持ち続けるかぎり、この宇宙に対して、また、地球に対して、お互い全人類に対して、全万物に対して、まったく責任も感じることなく、したがって、環境破壊もなくならないし、戦争さえなくならないと思います。
いとも簡単に、まるで蟻を潰すように、牛や豚を殺すように殺し合うのは、人間は小さな存在、つまらない存在という人間観が根本原因といえるのではないでしょうか。
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