桶狭間の戦い「信長、5つの勝因」は何だったか 奇襲はウソ?「最新の日本史」を紹介
謎が謎を呼ぶ?より深まる桶狭間の真相
永禄3(1560)年5月、京都への上洛を目指して駿府(静岡市)を出陣した今川義元は、当時すでに駿河・遠江・三河(伊豆を除く静岡県と愛知県東部)を領有する大大名でした。これを阻止しようと立ち上がった織田信長は、まだ尾張(愛知県西部)のうちの北部をやっと確保していた小大名。今川軍は大軍を率いて尾張国桶狭間(愛知県豊明市付近。田楽狭間とも)まで進軍します。
そこへ先発隊による緒戦での勝利が報じられ、気をよくした義元は、この細い窪地で行軍を停止し、酒宴を催し始めます。
しばらくすると雨が降り出し、やがて豪雨に変わると突然、背後の山から喚声がとどろきます。迂回路からひそかに布陣していた信長軍が、義元の本陣に向けて怒濤の奇襲をかけてきたのです。雨の中を右往左往する義元。そしてついに、信長の家臣・毛利新助の手で、義元はあっけなく討ち取られます──。
この、私たちがよく知る桶狭間の戦いでのクライマックスシーンは、江戸時代初期の作家、小瀬甫庵(おぜほあん・1564~1640)が書いた『信長記(しんちょうき)』に記されたストーリーで、長く一般に信じられてきました。
現代のドラマなどでもしばしば再現されてきたおなじみの展開ですが、近年の研究では、信長が行った作戦は、「迂回からの奇襲」ではなく「正面からの突撃」だったとされ、義元の酒宴も俗説の可能性が高いといわれています。
ただ、それでは兵力に勝る優勢な今川軍に、なぜ寡兵の信長が勝利できたのか説明がつきません。
今回は、現在、解明が進んでいる「桶狭間の戦いの真の姿」と「信長、本当の勝因」について解説します。
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