桶狭間の戦い「信長、5つの勝因」は何だったか 奇襲はウソ?「最新の日本史」を紹介
近年の研究を基に、信長が勝利できた理由(仮説)を挙げてみます。
義元の率いた軍勢の総数は2万5000といわれ、この大軍を率いて京都を目指したとされています。しかし、近年はその義元の上洛説が否定され、桶狭間は「単なる国境をめぐる出兵」という見解も出されています。
もしそうだとすれば、そうした局所的な紛争にそれほどの大軍が動員されたとは考えにくく、実際の兵力はもっと少なかった可能性もあります。
一方の信長が率いた軍勢は、一般には2000といわれています。
これを基に、戦国時代の標準的な軍役だった1万石当たり250人で計算すると、信長の支配していた所領は8万石となります。
当時の信長は尾張統一の途上にありましたが、総石高43万石のうちわずか5分の1以下という数字は少なすぎるのではという指摘もあります。
こうしたことから、桶狭間での信長は、2000から3500くらいの兵力を持っていた可能性も考えられます。
天にも味方される信長の幸運
当日の信長は、運にも恵まれていました。
信長が義元の布陣する桶狭間に出陣すると、にわかに天候が変わり、今でいう「ゲリラ豪雨」のような大雨に襲われました。雹(ひょう)が降ったと思われる記録もあり、付近の大木が倒れるほどの暴風雨だったとされます。
信長はその中を進軍しますが、幸運にも風雨を背中から受ける形で比較的行軍が容易だったのに対し、今川軍には真正面から雨が降りつける状態で、その間は織田軍の接近を察知できませんでした。
当時はまだ鉄砲(火縄銃)が珍しく、全国にもほとんど普及していませんでしたが、信長は少なくともその7年前から鉄砲の導入を始め、実戦での運用を試していました。
この戦いでも、雨が上がってから攻撃が開始されたことや、織田軍の突入時に煙が上がったなど、攻撃時に「鉄砲が使われた」可能性を思わせる記録が残っています。
Q5. 信長はこれらの理由が複合的に合わさった結果、勝てたのですか?
それだけではありません。【理由1〜4】を考え合わせても、今川軍と全面対決するには、まだ信長は兵力的には不利な状況です。
では、信長が勝てた「さらなる理由」は何でしょうか。
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