高級ミニカーに魅せられた男の並外れた情熱 知らなくてもいいが知ろうとしないのは罪だ
小林氏:父が亡くなって東京の町田に戻ったのですが、中学・高校と陸上競技一色になりました。都立高校時代の夏合宿では、跳躍競技の有名なコーチに見出され、ジュニアオリンピックや日本選手権、国体にも出場し、一時はそのままスポーツの世界で生きることも考えていましたが、この時、私は将来に対する考え方を大きく変えることになりました。
というのも、スポーツにはつきものですが、何度も大きな怪我を重ねてしまったことで、それまでいろいろな大学から推薦のお声がけをいただいていたのが、ピタッと止んでしまったんです。運よく、ジュニア世代の頃から目にかけていただいていた先生から推薦をいただいて大学には進めたのですが、怪我一つで運命が変わってしまうことに恐ろしさを感じてしまいました。それで、これから先、ずっと陸上で生きていくのは難しいと思うようになっていたんです。
未経験から飛び込んだ憧れの職業
小林氏:とはいえ、やはりやるからにはとことんのめり込んでしまう性格のようで、陸上競技の推薦で入った大学4年間は、もっぱら部活動に明け暮れてしまいました(笑)。おかげで主将も任されましたし、それまでは陸上を軸に頑張れば先がなんとなくありました。けれど、陸上で生きていかないと決めた以上、別の道を自ら切り拓く必要があったのですが、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたんです。「昔から文章を書くのが好きだからマスコミを志望したい」と大学の就職課に相談したのが、4年生の8月。就職課の担当者からは「君、一回り遅いよ」と言われてマスコミは諦め、代わりになんとか滑り込んで入れたのが、インテリア業界でブラインドなどを製造・販売する会社でした。
その会社では、営業部に配属され、東京地区を中心にお店や問屋さんのルートセールスをするのが、自分の仕事でした。今の仕事とも、その前の雑誌の仕事ともまったく違う業界でしたが、ここで過ごした約5年間が、今にして思えば仕事に対する「喜び」の原点になっていたんだと思います。
仕事の現場では、いくつもの想定外の事態が起きていました。そのたびにまわりの先輩・同僚や業者さん、職人さんたちが知恵を絞ってくれて、一緒に解決しようと動いてくれていたのですが、それに応えることで見ることができるお客さんの喜ぶ姿に「仕事の喜びってこういうことなのかな」、と感じたんです。納期がギリギリで、ブラインドを抱えて新幹線で新潟工場から現場にすっ飛んでいったこともありましたし、今でもはっきりと覚えているのですが、現場に搬入した時に寸法が5cm合わなくて目の前が真っ暗になったこともありました(笑)。