まず、コメント欄の書き込みの様子でバレるのが、その人が「実は暇だ」ということである。
書き込みで無駄遣いする「エネルギー」と「時間」
1行2行、さらりと批判のコメントを書き込むのは問題ないとしても、ご丁寧に20行も30行も詳細に批判を繰り広げ、気がつくと長々と書いてしまう、残念な人たち。
そういう人に限って、好意的なコメントをしている人への反論のコメントを残すだけでなく、「東洋経済オンライン」「ヤフーニュース」などのコメント欄に、著者の「人格破綻」に関する、それはそれは長い大演説を繰り広げるのだ。
こういう人は、もはや「暇人疑惑」を打ち消しようがない。
「そのエネルギーをより生産的なことに使ったら、世の中はどんなによくなるだろう」と思うのだが、結局のところ、ハッピーな人は「いいね」を押すことに、不満がある人は「怒りの書き込み」をすることにエネルギーと時間を消費するものだ。
満足している人はコメントせずに、怒っている人だけがコメント欄を焦土に変える――これが、世知辛い世の中の常なのである。
次にコメントの書き込みでバレるのが、ユーモアセンスの欠如だ。
そもそも「エレベーターの乗り方」「レジでの買い方」「お茶の飲み方」くらいで「その人の全人格が『一流』『二流』に区別されるわけがない」のである。
著者の意図としては「そういう面もある」「記事全体で、くすっと笑って、元気になってくれたらいいな」くらいの「一流の気持ち」で書いているのだ。
基本的に私が記事を書くときは、硬軟織り交ぜ、まじめな教訓とユーモラスな社会風刺の両方を入れ込んでいるのは、世界中の識者が知るところである(おそらく)。
にもかかわらず、記事の内容に炎上し、アマゾンに直行しては本を読んでもいないのに、「この筆者は人格がおかしいので、本を読んではいけません!」などと、まったく読書感想文になっていないレビューを書き込み、「アマゾン購入履歴」がないのに熱心に1をつけまくるか、評価の低いレビューに“いいね”を押しまくる、攻撃力満タンの人たち。
コメント欄の書き込みで、冗談を冗談と認識できるかどうか、「ユーモアのセンスの有無」がバレてしまうのである。
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