故人との別れを受け入れるために必要なこと 「死化粧」を究める元看護士の漫画作家が語る
――心の声に従って、畑違いの「本」の世界へ。
小林氏:そうして最初に出版社を受けたのですが、やはり看護師が畑違いの出版界へ進むことが理解されなかったので、まずは1年間、日本エディタースクールへ通いました。そこから医療関係の出版社、俳句の出版社と、編集者として、勤めるようになっていったんです。
30歳を過ぎたころ、執筆活動を始めたのと同時に、日本エディタースクール時代の同期と、編集プロダクション「レイ企画」を立ち上げ、同じく同期だった「紙のプロレス」を手がける世謝出版のメンバーと同じ場所でやりたいように仕事していました。
執筆活動をするようになったのは、偶然の出会いがきっかけでした。ある日、何かの出版記念パーティで隣に居合わせた編集者が、私の看護学生から看護師時代のエピソードに興味を持ってくれ、もっと多くの人にそれを知らせようと、本にするよう勧めてくれたのです。
「波乗社」という、数々の素晴らしい本を世に送り出す、有名なプロデューサー集団の1人である彼、渡辺さんは、翌日には企画書に仕上げてくれました。「私には書けないかも」という新人作家の弱音をうまく拾い、締め切り当日に「あらあ、(原稿)まだなんですう(渡辺氏談)」というのんきな私に根気よく付き合っていただいたおかげで、最初の著作である『愉快なナースのないしょ話』はできあがりました。それが、私の作家活動の始まりで、その後の『おたんこナース』にも繋がっていったんです。
不惑の年に決断した一生を捧げる仕事
小林氏:おかげさまで『おたんこナース』をはじめ、命の現場で感じた出来事が世の中の多くの人に読まれ、私自身書き手として、伝える意義のようなものを考えるようになっていきました。そして、とうとう「不惑」と言われる40歳を迎えるにあたり、「本当の大人」として、前々から心に引っかかっていたことに本気で取り組まなければと決意したんです。
「自分が一生をかけて取り組みたいこと、やるべきこと」。それは、やはり看護の世界で出会い、看取っていった患者さんたちとの別れ、「死」についてでした。ずっと心の中で、私を励まし続けてくれた患者のUさんをはじめ、私の目の前で亡くなった多くの方々。元看護師として、そこにいなければ感じることのできなかった、見えなかった問題を発信していこうと決心したんです。そして2001年、エンゼルメイク研究会を立ち上げました。
――エンゼルメイク研究会の活動は、どのように世間に受け入れられたのでしょう。
小林氏:最初は、「どうせ執筆のネタにするのだろう」という捉えられ方をしました。もちろん、新しい事を始めるのに、あらゆる反応は承知のうえでしたので、まずは自分が出来ることからと、各地の病院の看護師や院長に掛け合い、「エンゼルメイク」を取り巻く現状を知るため、アンケート調査をするところから始まりました。
活動を続けていく中で、徐々に、病院側も、患者の家族にも、双方に困っている人たちが、たくさんいることがわかりました。全国各地の看護師からの情報を集め、葬儀関係の方や美容関係者、文化人類学者まで、さまざまな方に取材を重ねて状況を知るようになっていったんです。
研究会の設立から十数年、振り返ってみると逆風に感じることが少なくなかったと思いますが、少しずつ、賛同してくれた方々のおかげで、理解、協力の輪は広がってきたように思います。