故人との別れを受け入れるために必要なこと 「死化粧」を究める元看護士の漫画作家が語る
――謝るはずが、逆に励まされてしまった。
小林氏: Uさんの言葉に胸を打たれ、「怒られるかも」なんて考えていた自分が恥ずかしくなり、感極まって、Uさんの前で号泣してしまいました。打ちとけた感覚になり、この出来事がきっかけで、研修が終わるまでの間、毎日「コミュニケーションを図る」といった適当な理由を行動表に記しては、Uさんの元へ向かい、お互い、他愛もないことを「しゃべって」いました。
担当したのは、たったの五日間。教務担当から患者さんの前で「また泣いたら減点」と言われていました。最終日は、また泣いてしまうといけないからと、そっけなく「お世話になりました」と、すぐに背を向け病室を後にしようとしたのですが、Uさんに引きとめられていろいろ話し、結局は泣いてしまい、それが教務に知れて減点となりました(笑)。その後、Uさんに会うことは一度もありませんでした。
それから数年後、Uさんはお亡くなりになりました。風の噂では、Uさんは亡くなるまで、周りの看護師さんに「あの子はどうなった」「ちゃんと卒業出来ただろうか」と、私のことを気にかけてくださっていたそうです。病状は悪化の一途をたどっているのに、「頑張りな」「とにかく卒業しなさい」と励まし続けてくれたUさん。
私はこの時から、ずっとUさんに励まされているように思います。私の人生を左右するとても印象深い時間、この出来事が「生と死」というものを考える、おおきなきっかけとなったんです。
免許証を破り捨て、「書く」道へ
小林氏:そうしたことを経験しながら、模範的な看護学生とはほど遠かった私も、周りに助けられながらなんとか無事卒業し、病院へ務める看護師(当時は看護婦)として、働くことになりました。
ところが看護の現場は、学生時期とは比べ物にならないほどさらにハードなもので、日常の中に「死」が身近に存在していることに、ショックを受けました。また、その「死」は、時には自分よりいくつも年下の患者さんまで訪れることに、圧倒された思いでした。
「人間いつどうなるかわからない。やりたいこと、思うことは蓋をせず生きていこう」と、この時にますます思うようになりました。
――辛い時期の中で、どのようにして「次」を見つけていったのでしょうか。
小林氏:名実共に半人前の「おたんこナース」だった私は、それでもなんとか必死に頑張っていたつもりでしたが、とうとう身体を崩してしまいました。精神的にも参っていた私は、「やめる」という文字が浮かんだら後戻りできなくなり、そのことで面接してくれた看護部長と口論になり、病院を辞めた当日に免許証を破いてしまいました。逃げるように実家に帰ったのが23歳。今思えば、どうかしていましたが、そうした迷いの多い時期だったんです。
病院勤めの看護師を辞め、私は献血の仕事をしながら2年間、自分がこれから進むべき道を模索していました。「いつどうなるかわからない」から、自分のキャリアがどうとか気にせずに、心の声に従って進んだのが、「本」の世界でした。看護師になる前から「本」の装丁を含む本そのものが大好きで、それに関わる仕事がしたいとずっと思っていたものの、どうすればいいかわからないと、いつの間にか忘れていた選択肢の1つでした。