プロ入りまで、スポットライトと無縁
ひとつの失敗が、キャリアの分岐点になることがある。ミスを反省して糧にできる人がいれば、腐って転落の一途をたどる者もいるだろう。失敗とは、人間の器をテストされているような局面だと思う。
右肩関節腱板損傷から7月中旬に復帰した浅尾拓也(中日)は、数々の失敗を乗り越えることで無名投手から日本屈指の“守護神”と評されるまでになった。
「失敗を乗り越える」という表現は「不撓不屈」や「前向きな取り組み」などポジティブなイメージを想起させられるが、浅尾のメンタルはむしろ逆だ。そこにこそ、球界トップに登り詰めることができた理由が潜んでいる。
2010年に歴代最多の47ホールドを記録して最優秀中継ぎ投手に輝き、翌年は同賞とシーズンMVPを獲得した浅尾だが、プロ入りまではスポットライトと無縁の日々を送った。小学生の頃はプロ野球選手を夢見ていたものの、中学生になると実力的に「プロにはなれない」と悟る。卒業後は捕手として愛知県立常滑北高校(現・常滑高校)に進学し、2年夏の大会後から本格的に投手として取り組んだ。高校3年夏の愛知県大会3回戦で敗れて「野球をやめよう」と思ったが、愛知大学野球連盟の下部リーグに所属していた日本福祉大学に推薦で合格した。「いつか絶対に野球をやめよう」と思う反面、「何となく続けていた」。
今季開幕前に『スポーツ男子。』(ぴあMOOK)の取材で話を聞いた際、浅尾の思考法に随分驚かされたものだ。最速157kmのストレートと鋭く落ちるフォークで打者に向かっていく姿から、勝手に豪快なイメージを抱いていたものの、浅尾の発言にはネガティブな色が少なくなかった。彼の話を聞きながら、『エヴァンゲリオン』の碇シンジを思い浮かべたほどだ。
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