MITを卒業し、6年半のアメリカ生活から帰ってきたら、日本では「パワースポット」「ゆるキャラ」などと並んで「グローバル人材」という不思議な言葉がはやっていて、僕自身も「グローバル人材」であるということにされていた。どうも僕はこの「グローバル人材」ブームに違和感を覚える。おそらく本連載の読者の中には、「グローバル」志向の方も多くおられると思う。連載最終回となる今回は、この「グローバル人材」という代物について考えてみたい。
「グローバル人材」の意味とは?
あなたは「グローバル人材」という言葉をどういう意味で使われているだろうか。
「グローバル人材」について語られるときに、二言目に登場するのが「英語」である。しかし当然のことながら、英語を流暢にしゃべれれば「グローバル人材」だというのは違う。日本語さえ話せれば日本で活躍できるわけではないのと同様に、英語さえ話せれば世界で活躍できるわけではない。英語は必要条件であって十分条件ではない。土俵に上がるための資格でしかない。
決して英語が重要ではないと言っているのではない。英語ができるうえで、何ができるかが大事だと言っているのだ。エンジニアリングでもビジネスでもアートでもスポーツでも何でもいい、土俵に上がったあとに世界と勝負するための、ユニークで抜きん出た能力がなくてはいけない。
留学をすれば「グローバル人材」であるというのも違う。日本の大学に行きさえすれば日本で活躍できるわけではないのと同様に、海外の大学に行きさえすれば海外で活躍できるわけではない。語学留学生や大企業からの社費留学生の中には、もちろん目標を高く持ち頑張っていた方も数多くいた一方で、どんな成績を取ろうと帰国後の身分が安泰であるのをいいことに、留学を夏休みと勘違いしている人もいた。彼らは最低限の努力で必要な単位のみ集め、週末ごとに日本人とばかりつるみ、暇さえあれば旅行やゴルフに明け暮れていた。彼らが「グローバルな経験」をしたとは、僕には思えない。
決して留学が無意味だと言っているのではない。行った先でどれだけ勉強や研究を頑張るかが大事だと言っているのだ。やはり留学するならば、日本の学校や会社に身分を残して行くのではなく、根無し草になり、現地の学生と同じ立場で飛び込む学位留学のほうが格段にいい経験を積める。結果を残さなければ卒業も就職もできない環境に身を置くことで、自らに努力を強制できるからだ。 「安定」と「グローバル」は根本的に両立しない概念なのだと思う。
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