「しょうがない」という日本語の裏にある潔さ 自分の思い通りにならないから人は苦しむ
しかし、日本語の「しょうがない」は、もう打つ手がなく、自分ではどうしようもないという、事実を自然と受け入れる姿勢を感じます。つまり、任意的なニュアンスです。このニュアンスの違いが、私の中で微妙な違和感を生じさせていたのです。
「しょうがない」の背景にあるもの
「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを持つ日本語の「しょうがない」という言葉ですが、西洋とは異なるニュアンスを持つ背景には、仏教の教えがあるように思えます。その教えとは「諦」です。これは通常は「あきらめる」と読み、意味は今日では「give up」として使われています。しかし、仏教ではこれを「たい」と読み、「さとり」「真実」を意味します。(「明らめる」と読み、「明らかになる」という意味も持ちます)
では、その「さとり」「真実」は何かというと、それは「物事は思い通りにならない」ということです。余談ですが、この意味から派生して「諦」が今日の「give up」の意味を持つようになったのです。そして、それをその真実に逆らい、できないものを思い通りにしようとするからこそ、人は苦しむのです。
物事は常に変化し、その自然な流れを思うようにコントロールしたり、逆らうことはできません。これは私たちにはどうすることもできず、ただ変化の中に身を任せるしかないのです。この真実の理解が、「しょうがない」という言葉に含まれる「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを生んだのだと思うのです。
これらすべて踏まえたうえで、西洋の方々にも理解してもらえる表現として日本語の「しょうがない」を英語にするとき、「Let it go.」(そのままで)「Become to be.」(なるようになる)という表現ができるかもしれません。しかし、これらもまたさまざまな意味や過程を集約したものであり、理解されるかは、また別の問題かもしれません。
この言葉を深く考えることで、物事の流れに逆らわない自然な姿勢を大切にすることは、楽に生きぬく方法の一つだと改めて学ばせて頂きました。
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