「しょうがない」という日本語の裏にある潔さ 自分の思い通りにならないから人は苦しむ

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しかし、日本語の「しょうがない」は、もう打つ手がなく、自分ではどうしようもないという、事実を自然と受け入れる姿勢を感じます。つまり、任意的なニュアンスです。このニュアンスの違いが、私の中で微妙な違和感を生じさせていたのです。

「しょうがない」の背景にあるもの

「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを持つ日本語の「しょうがない」という言葉ですが、西洋とは異なるニュアンスを持つ背景には、仏教の教えがあるように思えます。その教えとは「諦」です。これは通常は「あきらめる」と読み、意味は今日では「give up」として使われています。しかし、仏教ではこれを「たい」と読み、「さとり」「真実」を意味します。(「明らめる」と読み、「明らかになる」という意味も持ちます)

では、その「さとり」「真実」は何かというと、それは「物事は思い通りにならない」ということです。余談ですが、この意味から派生して「諦」が今日の「give up」の意味を持つようになったのです。そして、それをその真実に逆らい、できないものを思い通りにしようとするからこそ、人は苦しむのです。

物事は常に変化し、その自然な流れを思うようにコントロールしたり、逆らうことはできません。これは私たちにはどうすることもできず、ただ変化の中に身を任せるしかないのです。この真実の理解が、「しょうがない」という言葉に含まれる「あきらめる」という行為に任意的なニュアンスを生んだのだと思うのです。

これらすべて踏まえたうえで、西洋の方々にも理解してもらえる表現として日本語の「しょうがない」を英語にするとき、「Let it go.」(そのままで)「Become to be.」(なるようになる)という表現ができるかもしれません。しかし、これらもまたさまざまな意味や過程を集約したものであり、理解されるかは、また別の問題かもしれません。

この言葉を深く考えることで、物事の流れに逆らわない自然な姿勢を大切にすることは、楽に生きぬく方法の一つだと改めて学ばせて頂きました。

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大來 尚順 浄土真宗本願寺派僧侶

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おおぎ しょうじゅん / Shoujun Oogi

1982年、山口県生まれ。浄土真宗本願寺派僧侶でありながら、通訳や翻訳も手掛ける。龍谷大学卒業後に単身渡米。カリフォルニア州バークレーのGraduate Theological Union/Institute of Buddhist Studies(米国仏教大学院)に進学し修士課程を修了。その後、同国ハーバード大学神学部研究員を経て帰国。帰国後は東京と山口県の自坊(超勝寺)を行き来しながら、僧侶として以外にも通訳・翻訳、執筆・講演などの活動を通じて、国内外への仏教伝道活動を実施。翻訳著書も多数出版する傍ら、初級英語で仏教用語をやさしく解説した「英語でブッダ」(扶桑社)も非常に好評のほか、「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」(テレビ朝日系列)にも出演。
 

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