「24時間テレビ」は障害者をどう描いてきたか チャリティからバラエティへ?
「24時間テレビ」を立ち上げたプロデューサーの都築忠彦は、番組の目的および意味を、こう述べている。
〈私は、募金が最終目的ではなくて、国民参加による福祉ということについてキャンペーンすることが最終目的なわけで、募金はそのための手段にすぎないと思っています〉(日本テレビ放送網『24時間テレビ「愛は地球を救う」』、「チャリティ・キャンペーンの意味するもの」)
〈持続的な募金活動は、投票行動と同じように、具体的なNGO活動として成果を上げ、それが再び取材活動により放送されて、人々は社会に参加した実感を得る。この小さいけれど、直接民主制、市民参加型のモデル"テレポリティクス"という果実を産み落としたわけです〉(日本テレビ50年史編集室・編『テレビ夢50年 番組編③1971~1980』)
テレビの生放送で国民参加の福祉を実現させる──。大仰に聞こえるかもしれないが、実際にスタート当初の「24時間テレビ」は、現在からは考えられないほどに“硬派”だった。タモリのコメディドラマや深夜の音楽フェス中継、手塚治虫のアニメなどもあったが、福祉先進国と日本を比較したコーナーや、養護学校や老人ホームのレポートといった福祉について考える企画が数多くあった。
例として第2回放送では〈大村崑を隊長とする募金隊が、一般聴衆と福祉大対話集会を開く〉(読売新聞79年8月20日付)などという企画もあったという。特に第1回放送の最後にスタジオキャスターを務めた大橋巨泉が「僕が言いたいのは、福田(赳夫)総理大臣をはじめ、政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやることだと思うんです」と語ったことは、非常に象徴的なエピソードだ。
初期の「24時間テレビ」は番組テーマも明快だった。最初の2回は「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車いすを!」、第3回は「カンボジア・ベトナム・ラオスの難民のために!」といった具合で、毎年取り組むテーマがはっきりと打ち出されていた。
老人福祉、障害者の社会参加、海外援助。こうした明確な目的があった“硬派”路線から転換が図られたのは、92年の第15回だった。
紋切り型の「感動番組」から脱却できるか
1992年、番組視聴率の低下からテコ入れがなされ、「マジカル頭脳パワー!!」や「THE夜もヒッパレ」などのバラエティ番組にかかわっていたスタッフが、「24時間テレビ」のリニューアルに着手。抜本的な番組刷新の結果、初回の78年は15・6%だった視聴率が91年には6.6%まで落ち込んでいたものを、92年には17・2%と当時の歴代1位の数字を叩き出した。
そして、この92年こそが、現在の基礎を作り上げることとなった。
まず、この年の番組テーマが「愛の歌声は地球を救う」だったように、いまやおなじみとなった芸能人たちが武道館で応援ソングを合唱するというスタイルを生み出した。さらに、初めて設けられた「番組パーソナリティ」にバラエティ色の強いダウンタウンが起用され、間寛平のチャリティマラソンもスタート(ちなみに途中リタイア)。番組の代名詞ともいえる『サライ』も、この年の「24時間で番組オリジナルの『愛の歌』を作る」という企画から生まれた。
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