時代を彩った「角川映画」とは何だったのか? 宣伝マンが振り返る40年の歴史

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――現場にいるからこそ分かることがあると。

(松田)優作さんは、「役者は生もの」だと言っていましたね。「後から、いくらああだった、こうだったと振り返ってみても、結局は脚色にすぎない。その時の気持ちはその時に聞け」と言われた。だから現場に入ることは逆に嫌がらず、受けて頂けました。公開前の取材は、「その時のことは覚えてない」みたいなことを言われて。僕も「そこを何とか」なんて言いながら、やっていましたけどね。

――撮影現場に行くことが遠藤さんのスタイルだったわけですね。

そういうことを積み重ねていき、現場って面白いなと思えるようになった。特に角川さんは作るのと同じくらいに売ることも大切にしていたので、製作の打ち合わせに僕らも入れて頂いて、そこで相手役は誰がいいと思う? 主題歌は誰がいいと思う? と聞かれるわけです。だからこっちも勉強していかないといけない。それがものすごく勉強になった。その後、自分が宣伝をやる時もその手法をみんなに伝えるようにしていました。

洋画に負けない華やかさを醸す

『蘇える金狼』のワンシーン「松田優作さんは、『役者は生もの』だと言っていました」と遠藤氏は振り返る (C)KADOKAWA1979

――角川映画では、宣伝も一丸となってヒットを目指していたわけですね。

角川春樹さんのところには音楽の情報、役者の情報、監督の情報などが集まっていました。ちょうど日本映画が全体的に下火になっていった中で唯一、角川映画は洋画に負けないような華やかさを常に醸し出していたというか、そこにトライしていました。そして当然のようにその映画は当たるわけですよ。

――内訳はやはりテレビスポットが多かった?

もちろん圧倒的にお金がかかったのがテレビスポットですね。ただ、それとは別に必ずイベントを考えろという宿題をもらっていた。たとえば『探偵物語』の時は、『セーラー服と機関銃』から1年半ぶりで、彼女の元気な姿をなるべく全国の人に見てもらいたいという話になった。

そこで全国キャンペーンをやろうという話になったのですが、『セーラー服と機関銃』の時、大阪での舞台あいさつが、観客が殺到して上映中止になったという事件があった。そういうことがないよう、安全な場所を探し求めた結果、野球場しかないという結論になった。野球場でイベントをするなら、野球をするしかないということで「ヒロコーズ」という野球チームを作って、全国7カ所で試合をすることになった。

――野球の試合をしながら全国をまわる。

薬師丸さんが3曲歌うミニコンサート付きで、「ヒロコーズ」と野球をするイベントにしようと。東京は当時の後楽園球場で相手チームはJAC(ジャパン・アクション・クラブ)の面々でした。真田広之さんや志穂美悦子さんらと野球をやりましたよ。大阪は吉本興業チーム。福岡は西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)OBの人たち。

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