時代を彩った「角川映画」とは何だったのか?

宣伝マンが振り返る40年の歴史

そして3勝3敗で来て最終戦は名古屋。相手は地元のマスコミチームだったのですが、薬師丸さんが、ここは絶対に負けるわけはいかないと言い出すので、みんなプレッシャーだった(笑)。僕も昔、野球をやっていたので、プレイングコーチとして試合に出たんです。その時、最後にツーベースヒットを打って、確か1点差で勝つことができた。もうみんな喜びましたよね。これで仕事をしてもらえると思って(笑)。

歌番組は公開直前のみ出演させていた

『セーラー服と機関銃』(主演:薬師丸ひろ子)の舞台あいさつでは、観客が殺到して上映中止になったことも (C)KADOKAWA1981

――薬師丸さんのポジションはどこだったんですか。

必ず1イニングだけはピッチャーをやってもらうようにしていました。それはご本人の希望でもありました。始球式ということだけでなく。

――何事にも一生懸命な方なんでしょうね。1イニングをピッチャーとして出た後は、どこのポジションにいたんですか。

その後はベンチに行ったり、順不同でバッターに戻ってもらったり。なるべく試合には出てもらうようにはしていました。背番号は8940。とにかくそういうイベントを常に考えていましたね。

――遠藤さんが担当したのは宣伝だけでなく、薬師丸さんのマネジャー的なこともやられていたとか。

そうではないです。映画では主題歌を歌っていましたが、角川社長の指示のもとで例えば映画公開直前に「夜のヒットスタジオ」と「歌のトップテン」にそれぞれ1回だけ出る、という形で露出を制限していました。やはりレコード会社の人は立場上、断れないじゃないですか? でも僕は歌番組とは縁もゆかりもなかったので、番組出演のハンドリングをやっていました。

――むしろどう断るかということが仕事だったと。

圧倒的にそういう仕事でしたね。特に薬師丸さんや(原田)知世さんの場合、需要と供給で言うと、むしろ供給しないという中で話題を集めるようにするというか。角川さんはカリスマ性ということを非常に大切にされていた方でした。だからといって、マスコミとは敵対していたわけではなかった。別の映画の時には頭を下げてお願いしたりすることも当然あるわけですから。

――薬師丸さんたちの情報は当時、角川書店が発行していた雑誌「バラエティ」に集約させていたということですか?

そうですね。この雑誌は「キネマ旬報」にいた方が編集長に就任していて、映画の匂いをちりばめながら、本人たちの近況をそこで伝えていく形でした。ちょうど、杉田かおるさんと荻野目慶子さん、そして薬師丸さんが同い年なので、3人の対談とかよくやってましたね。

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