「東大の日本史」問題はありえないほど面白い 「なぜ」を多角的な視点から問う

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

学生時代にこのような問題に出合ったことがあるだろうか。「諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し」という問い方が、実に面白い。根本的な知識と思考能力を併せて量りつつ、回答者をわくわくさせる1問だ。

歴史の「なぜ」を多角的な視点から問う

では、この問題について簡単に解説しよう。

立憲制度を取り入れた大日本帝国憲法が発布されたのは1889(明治22年)年。五箇条の誓文で新政府の方針が示された1868(明治元)年から、わずか20年ほどである。

非ヨーロッパ国では、オスマン帝国(トルコ)が初の憲法(ミドハド憲法)を制定していたが、拙速であったがゆえに機能せず、2年後には憲法停止に追い込まれている。「ドイツの政治家や学者」が日本に対して「改革は余りに急進的」だと忠告したのも無理はない。

しかし、それでも明治政府が立憲制度の確立を目指したのは、まず国際的な理由として、幕末に結んだ不平等条約の改正という明治政府の悲願があった。日本が列強各国と主権国家体制における対等なパートナーとして認められるためには、近代国家の体裁を整えることが求められる。とりわけ、領事裁判権の撤廃には、憲法を中心とする近代的法制度の整備が必要条件だ。そこで、明治政府は憲法制定を急いだのである。

一方、国内に目を向けると、自由民権運動が盛り上がりを見せ、民権派による憲法の私案である私擬憲法の発表も相次いでいた。伊藤博文を中心とする薩長藩閥政府としては、憲法制定の主導権を渡すわけにはいかない。また、1881(明治14)年にはすでに、国会開設の勅諭を発して1890(明治23)年の議会開設を約束していたから、それまでに憲法を制定する必要に迫られていた。

そこでモデルとされたのが、君主権の強いドイツ流の憲法であった。明治政府は、天皇と政府に強い権限を与える憲法を制定して、民権派の動きを抑え込もうとしたのである。

以上のような史実を踏まえ、「もし、自分が調査団に加わっていたら」というイメージを膨らませて、240字以内でまとめれば回答となる。

次ページ歴史を学ぶ「意味」
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事