「東大の日本史」問題はありえないほど面白い 「なぜ」を多角的な視点から問う
このように、歴史の「なぜ」を多角的な視点から問うのが、東大の日本史の醍醐味である。
社会人にこそ「日本史」は必要だ
ある史実が生じた理由やその意義を、資料文などを与えながら論述形式で問う東大の日本史は、入試問題としては異色の存在だ。空欄問題や○×問題とは異なり、付け焼刃の知識では決して太刀打ちできず、受験生の歴史の理解力を試すには、きわめて適切なものだろう。
それだけではない。こうした「なぜ」を探求する姿勢を持ってこそ、歴史は私たち現代人の指針となりえるのだ。
上記の、国内外の状況などを鑑みて制定されるに至った明治時代の大日本帝国憲法の例のように、さまざまな要素を考慮して最適解を探ることは、いかなる時代、いかなる社会でも生き抜くための基本原則。過去における先人の判断や行動は、失敗も含めて現代人のモデル・ケースとなる。そこにこそ、単なる「教養」ではない、歴史を学ぶ「意味」はある。
つまり、日本史の受験勉強は社会に出てから役に立たないどころか、むしろ、社会人になってからより深く理解することができ、現在と未来に対して大いに役立つものなのだ。東大の入試問題は、一生使える教養の教科書だというのは、こういうことである。
学生時代にはよく「歴史の〈流れ〉を押さえよう」と教師から聞いたものだが、筆者は、歴史に〈流れ〉などがあるのかと疑っている。確かにその時代を生きている当事者にとっては、〈流れ〉に身を任せているだけかもしれないが、それを後世から客観的に見直したとき、そこにはさまざまな史実が織りなす〈必然〉がある。それこそが、同様に〈流れ〉に身を任せて生きている私たち現代人が学ぶべきものだと考えているのだ。筆者はそれを〈しくみ〉と呼んで、実際の予備校の授業において最も力を入れて説明している。
歴史とは、さまざまな史実が織りなすテクスト(織り物)であり、そこに「もしも織田信長が本能寺の変で敗死していなかったら」という仮定を差し挟む余地はない。本能寺の変という史実は、信長の独裁的な政治手法や伝統的な権威を否定する姿勢といった、その他の史実から導き出された〈必然〉だからである。
そうした歴史の〈必然〉を深く学ぶことは、「時代の〈流れ〉だから」などと言い訳せず、現代をしたたかに生き抜くうえで、大きな糧となるだろう。
(構成:山岸美夕紀)
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